高倉谷(今庄)-(06.03)

6月3日
 天気予報では、週末にも梅雨入りのようでである。で、思いきってその前にと6月3日に渓流に向かうことにした。

 今日入る谷は田倉川の支流「高倉谷」と決めていた。高倉谷は、以前から気にかかっている谷なのである。田倉川の分岐より約10km遡ったあたりで大きく2分するのであるが、右側の本流には林道もなく、越えられそうも無い大きな堰堤と堰堤湖が行く手を阻んでいるのである。釣り人は容易に入れない谷なのである。

 そして、僕の妄想があてどもなく膨らんでいくのである。もしこの谷に入ることが出来れば、そこには人を知らない岩魚達が群れ泳でいるに違いない。勿論、尺を越える大物も数知れぬ程潜んでいるに違いない。

 二万五千分一の地図を目を皿のようにしてにらみ、なんとか入る方法を思案したのである。その時、谷と尾根とが非常に接近する地点があることに気づいたのである。そこは、昔「高倉」の村落があった地点なのだ。しかも林道は今も健在で尾根上まで延びている。昨年尾根の上から谷を望んだ時は、到底下降できないほど谷は深く感じられたが、地図で確認すると谷底までの高低差は100mである。これならどんなにひどいブッシュでも、30分も要さずに下降可能だ。登り返すのも一時間みとけば充分である。そして、心は決まったのである。

 午前七時下降を開始。下降点を求めて辺りを探ると意外にも踏み跡らしき隙間がブッシュの中にあるではないか。辿って行くと踏み跡は次第に明瞭になり、赤布までもが現れてくる。しめたと思ったが、次の瞬間「な〜だ、みんな知っているのか」と落胆したのであった。しかし、気を取り直し下降を続けることにした。谷に近づくにつれて斜面は急になり、要所にはフィクッスロープも現れる。

 降り立った谷は、地図の通り傾斜は緩く、明るく開けていた。暫くは浅い瀬が続き、ポイントらしき所もない。しかも、数日前に数人の入渓者があったことを示す草の踏み跡が至る所に残されているではないか。もう一週間早く来ればと後悔したがどうしようもない。 もう、引き返すことは出来ない。とにかく上流へ向かった。10分程で、両岸から木々がせまり岩魚が居着いていそうな渓相になる。仕掛けを作り、釣を開始することにした。
緑深き谷
 しかし1時間ほど釣り上がっても、魚信は全くなく、走る影もない。岩魚はいないのだろうか、先行者によって釣られてしまったのだろうか。谷の両側に残されている草の踏み跡は釣り人にしては乱暴過ぎるように思えてならない。バッテリーや毒流しが行われたのだろうか。色々な事が頭の中をよぎって行くのであった。

 そんな事を思いながら尚も釣り上がること約2時間、ようやく1尾目の岩魚が姿を見せてくれる。20cmの美しい魚体であった。それから、25cm、24cm、22cmと200〜300mの間で立て続けに5.4mの竿がしなった。これは入れ食いかと思わせてくれるが、再び魚信は無くなってしまう。やがて、ロックフィル式の堰堤が現れる。堰堤下は絶好のポイントであったが、何度仕掛けを流しても竿先はピクリとも動かなかった。
20cmの美しいイワナ
 堰堤を越えて直ぐに少し早いが昼食を採ることにした。今日は単独なので、語りかける友もいない。谷の瀬の音が胸に染み入って来る。見上げると、随分と色濃くなった木々がたくましい緑の葉をまとい風に微かに騒いでいる。水際には、山葵が白い花を付け、その少し上の斜面では白糸草が繊細な花を揺らしている。こんな豊かな谷を独り占めにした、何と云う贅沢な食事だ。僕は、幸せであった。

 さーて、これからどうするか。独り言を云いながら立ち上がり、再び上流へ向かった。渓相は相変わらず平坦で、ポイントも少ない。仕掛けは、空しく流れるばかりである。半ば諦めかけた時、2つ目のロックフィル式の堰堤が現れる。先ほどと同じように随分古い物だ。戦前か戦後まもなく全て人力築かれたのであろう。治山、治水が目的と思われるが、なぜこの様な山深い所に築かれたのであろうか。不思議な感情に襲われるとと同時に、深い感慨が込み上げて来るのであった。
ロックフィル式の堰堤
 とにかく、堰堤を越えさらに釣り進むけれども反応は全く無い。とうとう、僕は竿を仕舞うことにした。時計は、3時の少し前を指している。

 下りは早い。1時間弱で下降地点に達する。目印に置いておいた手拭いを回収し、一気に急斜面を登り返す。要した時間は15分であった。意外に速いことに少し驚きなが、今は新地になった高倉の村落を後にしたとき、「あっ、そうだったのか」と思わず声を上げてしまった。あの堰堤を築いたのは高倉村の人々だったのだ。尾根上にある村から谷へは当時の人達にとっては苦もない事だったのは想像に難くない。耕地の少ない尾根にかわって、人々は高倉谷本流の堆積地を耕し、岩魚を捕り生業としていたに違いないのだ。僕は、確信した。

 その時、1973年4月13〜15日の山旅を思い出していた。当時はまだ廃屋があり、そこで一夜を過ごし、翌日「高倉峠」を経て雪の残る「釈迦嶺」を往復したのであった。村に別れを告げ、長い長い林道を辿りながら、何故、人々はこんな山深く移り住んだのであろうか、どのようにして暮らしていたんだろう、そしてどんな思いで村を去って行ったのであろうか、色々と思いを巡らした30年前の日のことを、今でも忘れることは出来ない。
30年前の高倉峠。1973.4.14