下田原谷-(09.30)

 9月30日は、渓流のその年の漁期最終日である。釣り人にとっては一年で最も短い日であり、また長い日なのだ。05年は、何故か解らないが思うように白峰に行けなかった年であった。体力、気力も若い時に比べれば衰えた事は間違いない。しかし、渓魚に対する思いはますます深まり、渓流への憧れは少しも変わらない。釣れても、釣れなくても良いから、今年もう一度渓流に立って渓の音を聞き、渓の風を全身に浴びたかった。

9月30日
 僕たち3人は、下田原谷のとある深みの尻に降り立っていた。ここは、岡本氏専用と云って良いくらい彼が通い詰めている所なのだ。そして何度も良形を釣り上げているポイントなのだ。釣り始めて直ぐに彼が30cmイワナを掛ける。僕にとっては、イワナなどいそうもないと思える流れの淀んだ所での出来事だ。続いて2尾目も彼が掛ける。5.4mの竿は円弧を描いて大きく撓っている。しかし、岩場に潜られ取り込むことは出来なかった。彼が云うには、先ほどより遙かに「でかかった」。さすがにポイントを知り尽くしているなと、感心するばかりである。僕には、コツコツととても大物とは思えない小さな当たりが一度あるだけであった。水谷さんの竿も直線を保ったままであった。

 僕は、岡本スペシャルポイントを諦め上流に向かうことにした。しかし水量は少なく、僕が好きな流れが絡み合う瀬は無かった。放流サイズのヤマメ一尾が釣れるのみであった。もうこれまでと思い、下降点まで引き返すことにした。いつのまにか、視線は流れから秋の草花へと移り変わって行くのであった。ダイモンジソウが至る所で繊細な花を谷風に揺らしている。足下の深い青紫の大きな花は、オオアキギリである。背丈を超えるサワアザミは、淡い紅色の花を重たげに提げている。

ダイモンジソウ オオアキギリ
 20分程で下降点に帰り着き、林道に向け登り返したがそこには両氏はいなかった。上流に向かったのであろう。僕は、シートを拡げ少し早めの昼食を採ることにした。そして30分ほど横になり、流れゆく秋の風に吹かれながまどろんでしまった。静かな午後の心豊かな一時であった。

 そうこうする中に両氏が戻ってきた。駄目であったとの言葉が返って来る。時計は2時を回っている。時間もないので最後に、以前から気になっていた百合谷上部に入ることにした。だがその前に、もう一度岡本スペシャルポイントに一人で入ることにした。その訳は、唯一小さな流れがあったことを思い出したからである。あの流れには、イワナが潜んでいるいるに違いない、それも良形が。直感である。僕は、竿とネットを持って一気に斜面を駆け下った。

 そして、竿を伸ばし慎重に仕掛けを流した。小さなコツコツをする当たりが返ってくる。午前中にあったのと全く同じ当たりかたである。再度テンションフリーに近い状態で仕掛けを流すと、目印は勢いよく上流に向かって走る。ヨシ!来た。竿を鋭く立てて合わすと、強い引きが手元に伝わってくる。良形に違いない。慎重に竿をたたみながらイワナを手前に引き寄せネットですくい上げる。28cmの丸々と太ったイワナであった。今年最後のイワナをしばらく見つめ、仕掛けを仕舞い再度斜面を駆け上がる。やはり嬉しさが込み上げてくる。林道に戻ると、渓に向かって「アデュー」と気障っぽく会釈をしその場を後にした。

 途中で水谷、岡本両者に合流し、百合谷に向かう。辿る林道にはススキがなびき、アキアカネが飛び始めている。もう秋なのだ。

秋の気配の林道
 目指した百合谷は、水量も少なくしかも先行者の存在示す真新しい踏み跡が残されていた。僕たちは、今年の釣りを終えることにした。勢いを失った夏草を踏みしめながら捨て去られた林道を急ぐこともなく引き返した。秋の到来を告げる、白い五弁のアケボノソが咲き始めていた。

 「つるの」の泊まり客は僕たち3人だけであった。いつもの食堂でいつものように食べきれない程の夕食を囲みビールと骨酒を飲み、いつもより言葉少なく、一年を語り笑顔で今日一日を終えたのでのであった。
水量の減った百合谷上部