金曜の夕方、山本氏から電話が入る。話は聞くまでもない。「白峰」に行こうと云うのである。7月20日の入れ食いの事を彼は知っているのだ。勿論断る理由はない、日曜の朝6時に待ち合わせる事にした。 8月3日 朝が弱いと云うのに、約束通りの時間に山本氏はやってきた。気合い充分でである。急いで荷物を載せ換え6時20分我が家を後ににする。通い慣れた道を少しばかり乱暴に飛ばす。朽木、今津を過ぎ、国境の峠を越えるともう敦賀である。北陸道を経て勝山を過ぎ谷峠のトンネルを抜け出ると白峰はすぐだ。時計は10時を少しまわっている。予定通りだ。白峰から幻の谷の入り口までは30分もあれば充分である。 そこは夏草が茂り、いつものように深閑として人の気配は感じられない。風も、雲も、時も何もかにもが緩やかに流れている。今日もいい釣りが出来そうだ。僕は前回楽しんだので、今日は竿を出すつもりはない、山本氏に夏の岩魚釣りを堪能してもらえれば充分である。ザックに飲み物とおにぎり2個、それいランディングネットを詰め、首にカメラを下げて、さー出発だ。藪をこいで堰堤を越え谷に降り立つ。直ぐには竿は出さずにちょっとした岩を力まかせに乗り越えると、釣りの開始だ。谷は真夏の陽を浴びながらカットグラスを散りばめたように七色の光線をはね返し流れている。岩魚たちはきっと瀬に潜み活発に餌を待ちかまえているに違いない。 浅い瀬に仕掛けを流すが反応はない。その上の落ち込みにも反応は無い。天井が開けているのが原因だろう。落ち込みの上流より谷は木々に被われ始める。すると、とたんに瀬から岩魚が飛び出してくる。4投目のことである。岩魚は15cm程度であったが、嬉しい一匹である。そしてほればれとする魚体である。今日も全て放流と決めている。瀬に戻してやると元気に流れに帰っていった。次いで1m程の滝状の落ち込みが現れる。今度は、かなり大きな岩魚だ。山本氏の竿は大きく円弧を描いてしなった。 25cmの岩魚だ。氏は満足げだ。僕も嬉しさは同じだ。これから入れ食い状態がしばらく続く。始めは数を憶えていたが、途中からどうでも良くなり何もかも忘れ釣りに夢中になって谷を遡って行くのであった。ちょっと油断をすると、足下から岩魚が何度も走り釣り損じる。それでも、25cm級が6〜7匹、20cm以下は20匹は優に越えている。 釣りに疲れたので、しばらくの休息だ。気に入った岩の上に座りおにぎりをほおばり、ペットボトルのお茶をのみ乾いた喉をうるおした。山本氏は、美味そうに煙草をくゆらしている。斜面に目をやると夏の強い逆光が山毛欅の混ざる半透明の雑木林を通して漏れてくる。目を閉じると、緑の風が身体の中を通りすぎてゆく。辺りは鎮まりかえり、涼やかな瀬音だけが単調なメロディーを奏でている。この緑深き日本と云う小さな島に生まれてきた幸運に感謝せずにはいられない一時である。 さあ、元気が出たから出発しよう。今日は、谷を最後まで詰めるつもりだ。遡るにつれて傾斜は増し始めガラ場状になり、谷を被っていた木々も失せる。すると、岩魚の数も減り、大きさも小ぶりになる。流量も半減し、もうこれ以上は竿を出せない程谷が極まった処に、一つの美しい淵が待ちかまえていたのであった。いかにも大物が潜んでいそな雰囲気の淵である。氏は慎重に仕掛けを投入する。と、3投目に予想外の場所から大きい黒い魚影が飛び出し、ピンク色の目印を1m以上もくわえて走る。毛針を持ってこなかったことを後悔する。その後、数回仕掛けを流すも反応がない。駄目かと諦めた瞬間、目印が引き込まれる。仕掛けを送り込むように道糸のテンションを弛め、一呼吸おいて合わすと5.4mの竿は手元から大きくしなった。ランディングネットですくい上げると、28cmの豊満この上ない岩魚であった。もう3年もすれば尺ものになるに違いにない。それまで、元気にいてくれと弱らないように針を外し、リリース。 時計を見ると、4時半だ。もう今日はこれで満足だ。さー、林道に向かって急ごう。僕たちはザックを背負った。見上げるとまぶしい夏空に、小ぶりではあるが紛れもない積乱雲が身近に迫った稜線の上にわき上がっている。 |