キアヌキ谷(7.19)

 これから入ろうとする谷は、キアヌキ谷と云う。聞き慣れない名前である。手取川が白峰の村落を過ぎ、大杉谷を左手に分岐させ、更に上流約2km遡った左手にその谷は刻まれているのである。谷は小さく、しかも車道を挟んであるため入渓するには本流を渡渉しなければならない。そのため、殆どの釣り人は顧みられることもないある種の「隠れ谷」なのである。だが、僕は以前からこの谷が気に掛かっていて何時か訪れようと思っていたのである。確率こそ少ないが、岩魚の気配が漂う急峻で豊かな木立に包まれた谷なのだ。

 7月19日、とうとうその日がやって来たのである。白峰で何時ものように下田原谷に向かう水谷、岡本両氏と別れ、一人手取川に沿う車道を上流へと車を走らせる。見慣れた大杉谷を左手に見送り、2つばかりの雪避け用の屋根だけのトンネルを過ぎると目指すキアヌキ谷の出合である。少しの食料と釣り具一式をサブザックに詰め、10時を少し過ぎた頃出発である。幅広い川原を少し下り、渡渉の開始だ。水量は何時もより少なく、股下辺りまで浸り難なく対岸に至る。出合から直ぐには竿は出さず、第一堰堤を強引に右岸を最短で巻き再び瀬に戻り、釣り仕度の開始だ。予想通り谷は狭く、木々が両岸から被さるようにその枝を張っているので、仕掛けは短めの2m程度、竿は5.4mとした。

 始めての谷の一投目は、心躍るものだ。左手から入る小さな谷の合流点に仕掛けを入れる。直ぐに反応が返ってくる。放流サイズの岩魚であったが、内心「やっぱり」と予想が的中したことに嬉しさが込み上げてくる。釣る数は、今日の夕食の塩焼きと骨酒分で充分である。20cm以下は全て放流と気を大きくして、遡行を開始する。谷間には山あじさいが、涼しげに花弁を広げている。両岸の岩場には、花期を少し過ぎたギボウシがまだまだと云わんばかりにこれ又涼味あふれる花を誇っている。今日は、時間もたっぷりとある、花々にも目を向けながらの渓流釣りを楽しもう。

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 200m程遡るとちょっとした淵に行き当たる。岩魚の活性を確認するため瀬尻に仕掛けを落とすとスーと岩魚が追ってくる。目印が上流に引き込まれる。一瞬の呼吸をおいて合わせると、強い引きが竿を通して伝わってくる。20cmは越えている美しい岩魚である。もう岩魚は活性度を増し、速い瀬に身を置いて流れ来る餌を待ちかまえているのだ。登るにつれて谷は益々急峻になり、巨岩が累々と重なりあっている。それを一つ一つ越えるにはかなりの労力を要する。高さ5m程の滝状巨岩を越えるとこの谷最後と思われる堰堤が現れる。左岸を巻き乗り越える。水量はほとんど変化無く白い飛沫の連続である。飛沫と飛沫の間に淵があり、そこが絶好のポイ
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ントとなる。5cmから15cm位の岩魚がいやになるほど釣れ、20cm〜25cmの岩魚がそれに交じると云った状態である。振り返って下流を眺めると2時間以上も遡ったと云うのに、まだ車道を谷間に望むことが出来る。何と云う急峻さだ。この絶景を独り占めしてのしばしの休息を楽しもう。ザックから紅茶を取り出し、乾いた喉を潤し、火照った顔を谷川の水で洗い、静かで幸せな一時を過ごし、そして再び出発だ。

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 遡る谷がその幅を狭め、両岸が間近に迫ってくると目の前に7m程度の滝が現れる。滝には小さな淵があるが、ちび岩魚が姿を現すのみであった。両岸を巻くのも面倒なので滝のど真ん中を行くことにする。腹まで浸かり淵を過ぎ、今度は頭から飛沫を浴びて一気に滝を通過する。さすがに7月も半ばを過ぎると、これくらいでは寒さは感じられない。滝を過ぎた辺りから谷は一変してなだらかになり、あんなにあった巨岩も嘘のように無くなる。さすがに水量も少なくなり、もう源頭が近づいてたことが予感できる。岩魚は釣れるが、全て放流サイズばかりである。時計を見ると4時を廻っている。遡行を中止するタイミングを求めながら更に遡ると今度は5m程度の滝に出会う。今日はここまでと決め、写真にその滝を収める。ザックを下ろし、帰り支度をする。いつの間にかずしりと重くなった魚籠を覗き中身を数えると25cmから22cmの岩魚が10匹収まっている。もう充分過ぎるくらいである。

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 4時40分下降を開始。さすがに下りは速い。少々の岩は飛び降り、傾斜のある岩は滑り下った。だが、悔しい事に若い頃様なスピードは出ない。6時丁度にようやく本流出合に到着。疲労困ぱいではあったが、予想以上の谷に巡り会えた事に感謝し、キアヌキ谷に別れを告げたのであった。

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 だが、今日の話はまだ終わらないのであった。宿に帰ると、岡本氏が何と38cmの大岩魚を釣り上げていたのであった。6年目にして悲願の達成である。奇しくも僕が45cmを釣ったのも4年前の白山祭りの日であった。この日も、水谷氏は網師に徹して岡本氏をサポートしていたのである。心広き氏には敬服するばかりである。次回の白山祭りの日は水谷氏の番だ。その時はこの私が網師になろう。そう誓い、冷たくひえたビールで乾杯し、みんなでこの幸せを分かち合った。