鳥越峠


 ただ「とりこし峠」あるいは「とりごえ峠」とだけ云っても、どの地方のどの峠か判らない程この「鳥越」と云う名を持つ峠は日本の各地にみられる。今から越えようとする峠は、揖斐川の支流広瀬川流域の村落と近江の湖北地方、遠くは水路あるいは陸路をを経て京、大坂とを結ぶ路であり、金糞岳直下の標高1000mを上回るこの地方にあっては高さを誇る峠である。

 それにしても「鳥が峠を越えていく」とは、なんとおおらかで、のびやかで、かろやかな響きをもっているのであろう。峠を通り抜ける上昇気流に乗って、一羽の鳥がその翼をゆるりとひるがえし峠を越えていく。そして鳥が越え去った空には、春まだ浅い頃ならばむら消えの残雪を背景にコブシの白い大輪の花が咲き薫っているだろう。夏の盛りなら真っ白な入道雲が雷鳴を轟かしているかもしれない。秋の終わりなら極彩色の木の葉がそれこそ無数のの小鳥のように乱舞しているであろう。もし、冬のさ中に峠に立ったならば、極北のシベリアの大草原から渡り鳥を乗せた冷たい季節風が飄々とすさんでいるに違いない。

 こうして、峠への想いは次第しだいに広がっていきまた一つ峠への旅が始まるのである。

9月15日(小雨)
 山の友の結婚式を終えた後、東海道本線で大垣に。駅前の旅館泊。

9月16日(秋晴)
 大垣発揖斐行きの始発は5時57分である。マッチ箱を二つ連ねたような少々時代がかった電車は、僕の他に数人の客を乗せ初秋の良く晴れ渡った稲田の中を長閑にレールを鳴らしながら走る。左手には粕川流域の山々が屏風のように続き、右手遠くには御岳が朝の白い光線を浴びて淡く光っている。そんな心地良い田園風景を30程楽しめば終点の揖斐である。

 予定していた川上行きのバスは便が悪く、駅前でタクシーに乗り込む。揖斐川町「森前」を過ぎるあたりで濃尾平野は山の端(は)に没し車道は狭い谷を眼下に揖斐川に沿うようになる。津汲、樫原と過ぎ横山ダムの上で本流をまたぐと坂内川に入る。坂本の村で諸家への路を岐けると流域最大の村落「広瀬」はもうそこだ。車は快調に山間のガタガタ道を少々乱暴にとばしてゆく。その道が左岸から右岸に移ると浅叉川の分岐だ。国道303号線に別れをつげ、出作りが点在する谷間を10分も遡ればちょっとした平地が開ける。かつての広瀬浅叉の跡であろう。周囲はしんと静まり、人の気配等全く感じられない。それでもで作りの田は美しいまでに手入れが届いていて廃村と云った暗さは無い。

 廃村から少し進んだ処で車を降りる。「気をつけてな」と云う運ちゃんに手を振って別れをつげる。もう一度ザックを詰め直し、山靴のひもを力いっぱいに締め、最後に地図を拡げこれから辿る点線路を確かめ、8時を少しまわった頃旅立ったのである。

 「浅叉川」と云う名の通り、浅くて広いどこか高原の山麓を思わすような谷間には、朝の清やかな浅い角度の光線が幾条にも交叉し合っている。辿る花崗岩の林道は小さく大きく左右に、時には上下に波打ちながら続く。道の端には、早くもほうけた芒が風に揺らぎ、その下を流れる谷の瀬の水辺にはつりふね草のピンクの花がふるえている。振り返り望む空は、一条の淡い雲がかかるパリッとした文句なしの秋空である。もちろん、急いだりはしない。路傍の花々を楽しみながらゆるりゆるりと峠へと登り詰めて行くのであった。

 2万5千図「近江河合」によれと、林道は金糞岳をほぼ真西にするあたりで尽きる事になっているがなおも続く。谷は一度窮まったようになるが再び開け始め前にも増して明るく広がる。やがて右に直角状に折れ曲がるともう源頭である。ここまでくれば国境稜線はすっかり高度感を失い、手の届きそうな角度で視界に入ってくるのであった。目指す峠への路は屈曲点から4本目の谷に刻まれている。出合でザックを下ろし、改めて等高線をなぞってみてここが標高900mを越えていることに気付くのであるが、実感として登り詰めたと云う気はほとんどしない。それほど今辿ってきた林道は緩やかであったのだ。そんな林道も、峠への谷の出合で右へ旋回し急激に斜度を増しながら峠とは反対側の斜面に向かい始める。

 9時15分、林道を離れ峠へと向かう谷を左手に採る。分け入った谷はさすがに狭く、かつての峠路は右手の緩やか斜面に付いているいるであろう思われるのであるが、地図の点線どおりに暫くは谷通しに行くことにする。谷底にはシシウドが今が盛り花を付け、その中を潜ると白く細かい花が雪のようサラサラとこぼれ落ち全身を白くした。谷が右へ曲がり再び左へ折れると、峠とおぼしきあたりの国境稜線が真正面に心持ち弛んだ様に望まれる。最後は右手の急斜面を攀じった。振り返れば、ひと目でそれと判る蕎麦粒山がまず黒々とせり上がり、続いてその右側に意外な形で能郷白山から磯倉への稜線がゆるやかにせり出し、最後はお決まりのように加賀の御大が遙か彼方の空に浮かび上がるのであった。何度も振り返りながら峠へてと極まっていく。と、突然旧道にバッタリと飛び出し、その旧道が一度S字をかけば峠であった。

 静かで、誰もいない、僕だけの峠である。何処に陣取ろうと、何をしようとかまわない峠なのだ。先ず、昨日結婚した山仲間のために乾杯だ。ザックにしのばせたとっておきの瓶ビールを特大のジョッキになみなみと注ぎ、空に向かって乾杯!。そして、いつもののように地図を拡げ美濃、越前、近江の山々を見渡そう。それにも飽きれば、ザックを枕にそよ吹く一陣の風にまどろむのもよかろう。見ることなく目にする木々の葉末はほんのりと秋色に染まり始め、聞くこともなく耳にする葉擦れの音は策々とした乾いた秋の音色であった。

 長い休憩のあと、11時10分峠を旅立つ。さて、峠より近江川への路は地図上では2つ在ることになっている。一つはそのまま白谷を辿り高山へ至る路であり、もう一つは江美国境を東に辿り向山の肩をかすめ甲津原に至る路である。通常、前者が鳥越峠とされていて甲津原への路など無いもだと思い込んでいたのである。だがその路はしっかりと稜線上に刻まれていたのだ。目の届く限り延々と続いているのである。思いもよらなかった古道に少し嬉しくなって予定を変更してしたい気持ちにかられたが、結局甲津原への路に未練を残し白谷へと向かったのであった。

 峠直下の両側から張り出した灌木をかき分け近江側に抜け出ると足下が開けるのは鮮やかであった。白谷の深く切れ込んだ逆三角形の空間には、豊穣の近江平野が金色にひかり、琵琶湖は秋の空の色そのままに満々と鎮まっているのであった。かっての旅人達もこうして同じようにここに立ち足下に広がる平野と湖を望んだだろう。そして、山の狭間の細路を辿ってきた旅人は眼前に開ける豊かで 、のびやかな光景に安堵の念を抱いたのであろう。

 そんな事に想いを巡らしながら下り始めた峠路は思っていたよりも遙かに鮮明にその痕跡をとどめて居るのであった。しかし、下るにつれてその跡は次第に薄れ始め、谷の底に降り立つ頃にはもうすっかり藪に紛れてしまっている。だが、丹念に目を凝らせば進む方向の右側の斜面に見つけ出すことが出来るのであった。そんな途絶えがちな路は、右手に支谷があると必ずと云って良いくらいその谷に沿って尾根の端を巻き谷を渡り叉右手の斜面に戻って行くと云う形で続いている。時々思い出したかのように見え隠れする琵琶湖と近江平野との角度が限界と思われる浅まると、間もなく左手に大洞と呼ばれる谷とそれにかかる白い飛沫の滝が木の間を越して目に入ってくる。ここまでは地元の人も良く訪れるのであろう、踏みしめる路も知らぬ間にのどかな里山の小径になっていいる。僕は、これまで幾度も拡げては眺めた地図を胸のポケットにしまい込んだ。あとは、秋の野花が咲き乱れるこの小径に行く手をまかすだけだ。

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