高丸(黒壁山)、烏帽子山
西原 清一
1973年5月12日(土)
五月晴れのもと、三人を乗せたべレットは、国道8号線沿いに湖岸を北上する。長浜を過ぎると、稲架(はさ)の木の並ぶ湖北特有の田園風景が展開する。木之本から1時間余ののち、八草峠(はっそうとうげ)に着いた。蕎麦粒山(そむぎ、そばつぼ、1297m)がトンガリ帽子を見せている。美濃側は谷は深いが、道の状態は良い。川上(地名)から10分ほど北上するとダムがあり、すぐ椀戸谷(わんと)が右に岐れている。目的の鳥東谷(とりひがし)の出合に車をおき、河原にテントを設営し終えたのが1時半であった。今日は高丸(黒壁山、△1316m)に登り、このテントへ戻ってくる予定である。
山名については、「秘境・奥美濃の山旅」(芝村文治編)では黒壁山と呼んでいる。これは「岐阜県揖斐郡徳山村門入(かどにゅう)の民俗」のなかの一文章にあるクロカベ山から推定されたもののようである。他に「樹林の山旅」(森本次男著)の奥美濃の足跡という記事にも顔を出している。通りがかった土地の人に訊くと高丸(たかまる)と呼んでいた。また、烏帽子山頂にあったビンの中に伊藤潤治氏らの名刺があり、そこでも「高丸を経て三周ヶ岳へ縦走する」旨のことが書いてあった。山名はさておき、この山のこの辺りでは刮目(かつもく)すべき高度を誇っている。この山より高いのは、南には伊吹山
鳥東谷遡行は、堰堤から始まる。谷の奥にポカッと頭を出しているのが高丸である。堰堤は五つある。大きな滝もなく平凡な谷である。しかし最後のツメはやはり急斜面になっていて、普段は邪魔物のシャクナゲなどは、この際頼もしい手がかりである。途中、振り返ると、我々の黄色いテントがポツンとゴマ粒のように見えた。
急登のヤブこぎもわずかで、山頂に立った。三角点は、南北に長い頂上の南の方、ナナカマド(?)の灌木の南東の隅にヤブに囲まれてある。しかしヤブの丈は胸ほどで、展望はすこぶる良い。つい一週間前に見た白山や能郷白山などが立派である。国境稜線上の山々んくぁど奥美濃全域が手にとるようだ。敦賀の海が白く光る。空青く、山は緑、幼稚園児の絵が現出している。
頂上からは、南尾根を少し下り、すぐ池ノ又谷へ向けてたどることにする。カタクリの紫色の花が群がり咲いている。谷には、ウド、フキなどが豊富であるが、ワサビはない。途中、草付きの急斜面をすべり降りるところが一か所あるぐらいで、とくに難しいこともない。池ノ又出合に着いたのは6時半近く、5分ほどで林道に出た。あっけなく目的を達した我々は、気楽な気持ちでテントへ向かった。おそい夕げは山賊焼き。大きなファイアーに頬は輝き、上限の月がミルク色の光の矢を降りそそいだ。
5月13日(日)晴れのち曇り
起床は5時半。快晴。朝食は根まがり竹の子のみそ汁。サブザックをまとめ、残りは車に放り込み、一路、椀戸谷出合へ向かう。今日は椀戸谷を遡行して烏帽子山を目指すのである。車を出合において出発したのは8時前であった。椀戸谷の最も大きい支谷の出合まではすぐであった。その先には大きな堰堤があり、右岸を巻く。ここから谷にはいくつか小さな瀑布がかかり、濡れたような若葉が生気に溢れ、目に痛い。最後の大きな堰堤は、左岸に巻き道がある。これを抜けると広い河原に出る。最後に急な勾配を攀じたところで、林道に出くわして驚いた。これを横切り、再びヤブに突入する。ネマガリダケを採りながらのヤブこぎは全く骨が折れる。烏帽子の南西のピークに出てホッとしたのもつかの間、本当にきついのはこれからである。烏帽子はもう手の届きそうなところまで迫っているが、それだけに気も焦り、最後のヤブこぎは竹の子どころではなかった。そして30分後、我々は汗まみれになって三角点を踏みつけていた。見通しは、前日ほどではないが、高丸の量感のある山容は、一種の威圧感をもって迫ってきた。
帰路は林道をしばらくたどり、椀戸谷の支谷を下降した。ザイルは携行していたが、結局使用しなかった。しかし、今回の谷の中では最も迫力があった。椀戸谷出合に戻り、明るい河原で冷やしソーメンを作った。これを必死に奪い合う我々の胸の内には、平和な安堵感だけではない、なにかふつふつと湧きあがってくる充実感があった。
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