蕎麦粒山(遙かなる山)

 5万図の「横山に」蕎麦粒山と記されている標高1297mのピークを「ソムギヤマ」、「ソバツブヤマ」、あるいは「ソバツボヤマ」と呼ぶかはクラブの中でも議論の分かれるところだ。だだ、地元の門入では「ソムギ」と云っても通じなく、村人は「ソバツボヤマ」と呼んでいた。だだし、「ツブ」か「ツボ」かは正確に判別出来なかった。山名は、その山頂が蕎麦の実のように三角形に尖っていることに由来することは間違いないと思われる。

 その呼び名はともかくとして、周囲の山々を圧して天にに向かって尋常ではない程の角度でシンメトリックにそびえ立つその姿は見事と云うほかない。一度その姿を目にした者は、どうしてもその頂を踏んでみたい思いにかき立てられるのは私だけではあるまい。と云う訳でメンバーを募ったところ8名もの同志が集まったのである。

9月14日
 大垣の駅でで滝波山へ向かう清水さん達のパティーと別れタクシーで何時もの宿へ向かった。宿と云っても、国鉄樽見線の田圃の真ん中にある無人駅である。ここで、一夜を過ごし明日の一番列車に乗り込もう云う魂胆なのだ。何時ものように駅のプラットホームで明日からの山旅に乾杯した後、待合い室にマットを敷き、むせ返る程蚊取線香をたき、虫を追い出しシュラフに潜り込んだ時はもう15日の午前零時をまわっていた。

9月15日
 寝ぼけ眼の旅人を乗せた一番列車は、すっかり秋めいた稲田の中を心地よい音をたてながらのんびりと走る。運転手が、最近起きた踏切事故現場でわざわざ列車を止めてグシャグシャになった車を指でさしながら説明してくれるおまけまで付くと云うのんびりさである。

 美濃神海で列車を降り、バスに乗り換えさらに樽見でバスを乗り継ぎ終点徳山まで入る。そこで、町で唯一の若丸タクシーに乗り込み門入に向かった。運転手の「清水の鉄チャン」とはもう顔馴染みで、「おおまた来たか」と歓迎してくれる。

 門入は揖斐川西谷の最奥の村落ではあるが、寒村と云う雰囲気はなく旅館まであり徳山と同様になんとなく俗っぽい村であった。

 当初の計画では、門入よりホハレ峠へ続く林道を辿り付図のA点に至りそこよりイ谷に入り源頭付近で露営し、翌日蕎麦粒山を往復する予定であった。だが、イ谷を探ってみると両側ともせまり谷幅狭くその上滝の連続であった。とてもテントを張れそうなスペースは無い。それに、八名と云う大勢での谷歩きはいくら時間がかかるか分からない。もしかすれば頂まで行き着けないかもしれない。だが、僕たちはどうしても頂を踏みたいのである。結局一番確実なルートを採ることにした。A点よりイ谷に入り、右岸よりの小谷を辿りイ尾根まで上がり、そのまま尾根伝い頂を目指そうと云うのである。

 そんな訳で今日の露営地はイ谷と林道との出会いとなった。林道の片隅にテントとツェルトをそれぞれ一張りづつ時間をかけて設営した。それでもまだ時間があるので、ホハレ峠まで行くことにした。林道は、それこそ5万図の等高線と全く同じ曲線を描いていると思えるくらいゆるりゆるりと高度を上げでいくのであった。コンター800m位までくるとホハレ峠は谷を隔ててすぐそこにあったが、林道はその曲線をますます複雑にして峠を遠ざけていくかの様であった。とうとう僕たちは馬鹿らしくなって止めてしまった。それに、無理に峠まで行ってもそこにあるのは無惨に切り崩された山肌だけだと云うことは察しがついていた。それよりも昔に想いを巡らし遠くから眺めているほうが良いのかもしれないと思いつつ林道を下り露営地へと向かった。

 楽しい夕餉が始まった時は、もう陽も沈み紫色に染まった尾根の向こうの空が微かに暮れ残るばかりでであった。赤々と炎を上げる焚き火を囲み、徳山で買った鱒を朴の葉くるんで焼きながら酒を飲み、酔いがまわり始めると知ってる限りの歌を唄い、歌が尽きると踊りまで出てくる始末である。まるで山賊の宴さながらである。まあ良いではないか。明日は積年の想いを晴らす日なのだ。

9月16日
 午前4時、夜が明けるにはまだ早い。僕たちはゆっくりと朝食をとりなながら東の空が紅に染まるのを待った。山々は黒々として、淡く鈍く沈んだ空を限っている。そして5時40分とうとうは空は白んだ。と同時に、空には雲一つ無いことも分かった。心は踊り「さあ行くぞ」と叫んだ。

 林道を少し降って入った 谷は小さいけれどもナメ滝の連続であった。快調に次々とあらわれる滝を乗り越え、6時40分にはもう尾根の上に立っていた。早くも能郷白山や不動山が視界に飛び込んでくる。そして、目指す蕎麦粒山は眼前に迫り頂きの木々一本までもがはっきりと分かるくらいの近さにあった。逸る心を静め、ゆるりゆるりと灌木で被われた尾根を辿る。尾根には、微かではあるが昔伐採時に造ったと思われる径が残っていてそれを辿ればかなりの速さで藪をくぐることができる。高度が上がるにつれて視界は広がっていく。蕎麦粒山の南西にある高度1060mのピークが高度を知るのに良い目安となる。その1060mのピークを見下ろすようになると傾斜がグーンと強まり、視界の開ける速度も加速度的になる。次々と美濃の山々が視界に飛び込んでくる。だが、地図などは不要だ。それらは全て何度も見た山々であり地図と寸分違わないと云ってもいいくらい正確に覚えてしまっているからだ。それでも高度1100mを越えたあたりで加賀白山が突如として姿を現したのには驚いた。高度にして最後の100mはきつい。微かに在った径も消え失せ急斜面にびっしりと茂った石楠花の枝を渡ったり潜ったりそれはもう大変なものである。

 眼前の視界が開けたのはそれから30後の事であった。それも突然である。山頂は背の低い灌木に被われ南北に細長くのびている。三角点はそのほぼ中央在るらしい。心は騒いだ。

 10時10分とうとう頂上だ。いや、テッペンだ。嬉しさのあまりおもわずバンザイしてしまった。後は、仲間達と無茶苦茶に握手をしまくった。それから、心を鎮めて彼方の山々を眺めた。絶頂からの眺めの良さは云うまでも無い。山叉山であった。もう随分と昔に足跡を印した回想の山も在ればつい最近頂を踏んだ記憶も新しい山もある。今こうしてそれらの山々を眺めていると登った時のことがしみじみと込み上げてくるのであった。そして叉、未だ頂きを踏めぬ山々を見定めたては思いを新たにするのであった。それら全ては、見果てることのない山々であり、見果てぬ夢の源泉なのだ。

 奥美濃の山を志す仲間にはある習わしがある。僕たちもその習わしに順い、手帳を破り各々の名前と日付を記してビンに入れ三角点に託し11時山頂を去った。

 帰路はホハレ峠に続く村界尾根を辿り1060mのピークに至り、それより北西に延びる尾根を伝い林道に出る予定である。下り初めは急で、しかも雪で撓められた石楠花や根曲がり竹が密生していて足が地に着かないこともしばしばであった。それに尾根の両側とも見事に切れ落ちていて少しでも外すことが出来ない。それでも所々に岩が露出していて、そこが絶好の展望台兼休憩所となった。振り返れば東の空を圧して蕎麦粒山があるばかりである。

 1060mのピークの北西の尾根は村界尾根を思うと比べものにならないくらい楽であった。それに、途中よりイ尾根に在ったと径と同じような径がありすんなりと820mのピーク手前のの鞍部で林道に出会うことが出来た。だが、時間は3時をとっくにまわっていた。いくら急いでも4時5分に徳山を発つバスには間に合うはずがない。それに、みんなも急ぐ気はなかった。水場でゆっくりと休み、今日1日のことをそれぞれ思い出しながら曲がりくねった林道を昨日と劣らないくらいゆっくりと降っていった。

 陽は西の空少し傾いたがまだまだきらめきは失ってはいない。だが、そのきらめきには夏の日の烈しさは最早なかった。立ち止まると、標高800mの山深い林道には既に冷気が感じられた。その冷気に秋が立ち染めたことを知り、過ぎて行った夏の日々を想いながらの山旅の終わりであった。