美濃俣丸と三周ヶ岳 ―スギ谷、金ヶ丸谷より―
清水 勝・西原清一
1973年6月16日(土)晴 スギ谷−美濃俣丸−大ヤブレ (清水 勝)
いつもの奥美濃山行なら前夜発とか東雲の早発ちが恒例だが、今日は早朝、といっても6時半。
日の長い折、それほどの早発ちと感じられない。力強い激しさはなく、それでいて白くまばゆい陽光が、かすかな薄靄の中に、田畑の緑をしっとり落ち着かせるものとして感じられるのが朝だ。車窓より通学中の制服姿の高校生、多分都会ではアンバランスなものとして映るであろうタンボ道を自転車で出勤を急ぐ、ネクタイに背広姿のサラリーマンが、ほほえましく、かつ自己とは異種のものとして思われる。これは旅の特権だ。
今回の山行の主目的は金ヶ丸谷溯行である。詮索した結果、僕らは大河内よりアプローチする事にした。大河内はもちろん下流の二ツ屋、広野も現在は廃村と化している。旧広野部落地点では、日野川出合付近に治水用ダムを建設中であり、本来が過疎化した物憂い谷合であるはずの雰囲気の中で、近代都市文明的な妙な活力が異彩を放ち、特に鋭く機械的にえぐり取られた車道と、寺社と言う響きが有する重々しい年輪を全く感じさせない急造に移設された真新しい村社が変に象徴的であった。この感覚の延長故か、それとも昼近い陽光の下故か、前谷出合の草茂る広い川岸で溯行を始める僕らに、つい今しがた、山仕事に向う村人の人なつこい、それでいて無表情な顔と目を合わせる様な気がしきりと生じてくる。
前谷出合は広く平坦な湿地であり、背丈のあるショウブの類がおい茂り、一筋、昔の山仕事用のものであろうか、しっかりした踏跡が川添いに、そして徐々に左支尾根(右岸)へと続き、小谷を合して消え去ってしまう。支尾根をトラバースぎみに急下降すると、左右の木々の緑がせばまって来、清冷な流れとともに谷の溯行が始まる。水量はさほど多くはない。浅い流れの中に乾いた頭を出した谷岩を飛石として進むうち、静流に気を許していたのであろう、フト気がつくと岩壁が垂直に両岸より迫って来ている。この穏やかなゴルジェは、真谷−スギ谷出合まで続き、途中にF3mの滝を除くと淵もなく、浅い静流である。深い淵を有した、谷巾いっぱいに広がったF3mの滝には少々難渋させられた。困ったなと思っていると、左(右岸)に鉄釘で固定したフィックスザイルがあり、これを利用し、バンド状のテラスへと乗越す。当初僕らは、漠然と大河内山に登るつもりであった。それがクジャクシダの茂るスギ谷出合で、急遽、美濃俣丸へと鉾先を変更する。これも又旅の余興である。
出合付近は狭く、真昼の太陽も樹林で遮られ、暗く、しっとりしている。黒々とした美しい渓流を進むと、ナメ状のゴルジェ帯となり、F3mが出現する。右(左岸)は岩壁、左(右岸)を巻くと今度は赤い岩床のすき透る様なナメが、所々深く、青い淵を形成し、腰まで没しながら、溯行の楽しさを味わう。トチの大樹が数本、両岸より天空へそびえ、その枝葉の間から赤褐色の凄い岩壁(50m位)が樹林の緑と静流の碧さとのコントラストにより、くっきりした輪郭で迫り美しい。この岸壁で流れは直角に変化し、岩小屋を形成している。右岸の大岩で核心部は終了する。後はスギ谷(多分 直谷−杉谷−真直な谷)の名のごとく、稜線近くまで単一で5万図で見る左(右岸)よりの支谷見当たらず、左右の空間的な広がりを呈した谷相となっている。谷水は流れというより、淀みを作り、水際までびっしりと茂る夏草が、淀みの中で互いの葉を重ねあい、流れに根を洗われる為であろう、葉の茂みは、たえずゆらぎ、その濃い葉は、きつい日射の中で強い意志を有し、ムンムンする草いきれの中で、流木が堰を作っている。
伐採地の様な荒れたすさんだ感覚だが、これは盛りをむかえた、激しい力強い植生のエネルギー −自然の力故であろうか。
美濃俣丸の大河内に伸びる尾根上の鞍部に源を発する谷であろう、途中 右(左岸)よりF2+2mのナメ滝を持った支谷をみるが、水量の多い左に向かう。ここでちょっと右岩壁で、ややゴルジェ状のところに3mのナメ滝があり、以後再び広い谷相となる。源頭の勾配はゆるやかで、伏流となってほどなく主稜に立つ。双子峰の美濃俣丸の最低鞍部である。ここより約20分で山頂に達する。曇天で薄暗い。ゆるやかなスロープの笹ヶ峰、特色のある山容の能郷白山、眼前に圧倒的ボリュームを持ち対坐する黒壁山、そして鋭鋒的な三周ヶ岳と、すべてが暗い翳りをを有し、黒い山容は、むしろ奥美濃的な孤独な厳しさを感じられ、己の臓腑に徐々にしみわたってくる。伊藤潤治氏のなつかしい書置がみつけられる。
大ヤブレへの下降は少々バテる。初日故か、足がなかなか思うにまかせず、歩を進めてくれない。
源頭付近には、水量は少ないが、落差のある滝がF2+6m、F9mと続く。面倒なのでアップザイレンと思ったが、いずれも右(右岸)を巻く方が時間的に楽である。左右の支谷のF5m、F4mを見、本流のF4m、F2+8mをいずれも右(右岸)巻くと、大ヤブレ右俣出合となる。F2+8mは黒い岩床を落下する谷水が残光にしぶく照りまばゆい。上流では色あでやかな谷ウツギも下流になると盛りを過ぎた色褪せたものへと変化していく中で、疲れ切った体に拍車をかけ、金ヶ丸谷出合へと急ぐ。一定勾配の流れは、しだいに水量を増し、両岸の木々も高く大きく、静かな樹林帯を抜けると、もうそこは本流出合であった。
明日は雨はふるまい。僕らが河原にツェルトを張り終えるころ、物寂しいヌエが鳴き、岩魚であろう水面を2度、3度刎ねる水音が、無表情に流れる渓流以外の、わずかな響きであった。
谷の出合と言うにふさわしい、この大きな流れの交叉する樹林帯は、どこかさやかに思い出せないが、経験のある様だ。芦生の原始林の中では? と感じつつも、同時に、それは錯覚であり、静流と樹林への強い郷愁であり、渓谷への淡々としたつきる事のない感動だと思われてくるのであった。
1973年6月17日(日) 金ヶ丸谷−三周ヶ岳−夜叉ヶ池 (西原清一)
昨日京都を発ったのに、今朝はもう奥美濃の最深部で目を覚ます。大ヤブレ谷出合は、かなり広々としており、いくらで幕営地が探せる。樹林に囲まれたいい出会で、青苔を水が走るさまに思わず心も和む。森厳な霊気が辺りに漂い、ソローの「森の生活」を想わせる。昨夜は瀬音にまじってヌエの消え入りそうな鳴き声が聞こえていた。今朝はあいにくの曇り空であるが、二人ともはりきっている。なにしろあこがれの金ヶ丸だ。しかもこんなに早く実現するとは思っていなかった。
はじめから、水の中を歩く。しばらくは何の変哲もない渓流だが、半時間もすると、10m程のローカに出くわす。やがて右に明瞭な支谷を見る。ここには3m程のナメ滝がかかっている。これを過ぎると、一帯がローカ状になり、いよいよ核心部に近づいたことを感じさせる。谷が南西から西へと方向を変える地点も近いと思われるころ、4mの滝に出くわした(A)。高さはないが、水量が豊富でツボが大きく、とても直登できない。両側は岩壁がそそり立ち、ハタと困ってしまった。あせってはいけないというわけで、ここで写真を撮ったり、キジを撃ったりする。左(右岸)に高まきを試みるが、どうもいい取り付きがない。清水氏は、左は滝の上流も岩壁になっているので本流に降り立つのに苦労しそうだという。結局、右にルンゼ状の急斜面があったので、これを登ることにする。ザイルをからげて、空身でよじる。ずり落ちても大したことはないようだが、ルンゼを脱して小尾根に取り付くために、灌木に跳び移るところが厄介だった。ステップ・カットや確保のためにピッケルが欲しいと思った。
この小さな高巻きに40分以上も費やしてしまった。この滝のすぐ上に5mの滝があり、その中間の右岸には10m程のスラブがあり、水も流れナメ滝状になっている。(後日「樹林の山旅」を読むと、森本次男氏はこの4mの滝をツボの右をからんで通過している。)
これを過ぎると以後はローカとフチ、ナメ状のゴルジュの連続である。これらの間に2m前後の滝が6つ立て続けにあらわれた(B)。これらは、大岩がはさまっているもの、低いながらも大きなツボを持ちそれへドウと落ちているものなどいろいろである。両岸は岩壁となってるので、高巻きを強いられると苦労しそうだ。しかし幸い、腰まで浸ったり、シャワークライムを覚悟すれば、どれも直登またはへつることが可能であった。さらに、大岩が複雑に絡み合った3m程の門のような滝を過ぎると、谷は左(南南東)へと向きを変える。ややローカを脱した様子で、ここまで来るとタニウツギがまだ美しく咲いている(C)。右前方に岩壁が屹立し、さらにその向こう、国境稜線の方面にするどい岩峰が突き出ている。ここでヒゲパンとチーズで小休止にする。
しかし、このおだやかな場所もつかの間で、歩き始めるとすぐ3mの滝が現れ、その後ろに、立てかけたような岩の壁に挟まれた幅が数mのローカ地帯がひかえていた(D)。ここの岸壁は少し青白く、白い要塞とでもいうべき景観を呈している(図1)。水深はそれほどでなかったのでジャブジャブやって進んだが、鉄砲水なら逃げ場がないだろう。ところどころニッコウキスゲが咲いていた。
やがて大きいフチがあらわれ、その上に水平距離にして20m程のナメ滝があった。これを越すと、岸壁でぐるりと囲まれたツボに出た。それはまるで直径10m程の大きなコップの底のようだった(図2,(E))。底の全体が水面なのだ。一瞬これは駄目だと思ったが、右の方を逆時計回りにへつることができた。滝が2m程度なので助かった。さらに10分ほどで、高度差4m、長さ10mのナメが現れ、その上流150m程は幅1mのナメ状のゴルジュが続いていた。ここには2m程の滝が5つ連続していた(地図)。最初のはツボも大きく、清水氏は腰まで水に没し、右(左岸)の岩にぶら下がるようにしてへつった。幅が狭いところは、両岸に足を交互に突きながら進んだ。面白い。
滝や岸壁はこれを最後に、あとは穏やかな樹林帯に入って行った(F)。ブナの大樹に、苔むす岩。トロトロと静かな流れ、ふと我に返ると、小鳥の鳴き声が降るようであった。ゴクロウサン。ゴクロウサン。僕らの間に会話が復活した。清水氏は演習林の大谷のようだと言った。僕は川浦(かおれ)谷の上流のようだと思った。右手の国境尾根とも、それほど高度差はない。幕営可能な平地も多い。残雪のブロックが残っていた。三周ヶ岳を少し回りこんだと思われる地点で谷は傾斜を増し、二分している(G)。右が本谷であるが、左を取れば多分、三周ヶ岳南の鞍部に出ると思う。ここでインスタントみそ汁にモチを入れて昼食。ラーメンよりはるかに旨かった。ポリタンを忘れていたので、清水氏の奮闘により、ビニール袋を二重にしてコッフェルとホエブスの容器で運ぶ。貴重な水だ。
しばらく進んだところで、揖斐川の源は土の中に消え去った。尾根に出ると、霧雨が降っていて、三周ヶ岳は北方に霞んでいる。ザックを置いて往復することにした。メガネが曇っていたためか、何度か径をふみ違えたが、踏み跡は明瞭に尾根上を忠実に走っている。ぬれ鼠になってたどり着いた三周ヶ岳、ついにやった! 展望は…、アルハズガナイ。したがってタバコを吸うほか、別にすることもない。「360度、ナナカマドの大展望だ」などと自嘲的な冗談を向きになって言い合った。
ふたたびザック地点へ戻り、夜叉ヶ池を目指す。途中、展望のきかない日などは黒壁山への尾根に迷い込みそうなところがあった。が、それ以外は迷う心配はない。何も見えない霧雨の中を黙々と歩く。身体はなかなか暖まって来ない。しかし、最後のおまけのような気持で歩いたこの国境尾根は長かった。
やがて、尾根上で小径が十文字に交叉する地点に到着。美濃側は急斜面である。晴れていたらすぐ西側に夜叉ヶ池を認めたであろうに、確信のないまま右(西)へ下る。とすぐ、先を行く清水氏が「夜叉ヶ池だ」と叫ぶ。驚いたことに、緩い斜面のように白く霧のたちこめていたその一体全てが夜叉ヶ池そのものだったのだ。砂浜状の岸辺に波がひたひたと寄せている。対岸は霧に閉ざされている。僕たちにとって夜叉ヶ池の第一印象は、神秘・怪奇とはほど遠かった。まるで砂浜に立って大海原を望んでいるような錯覚を起こさせた。
1973年6月18日(月) 夜叉ヶ池−クラノマタ−広野 (西原清一)
三国ヶ岳へも行くつもりだったが、天候が思わしくない。あきらめるとなると、時間は十分過ぎるほどある。遅い出発となった。帰路はクラノマタから広野に下った。クラノマタ谷は、夜叉ヶ滝をはじめナメや滝が多く、一度は遡行してみたい谷である。広野ダムは、工業用水、治水の多目的ダムで、完成すれば上流315mまでは水没するそうだ。広野を過ぎたところで、通りがかった乗用車に便乗、旧北陸線を通って、敦賀まで運んでもらった。森進一の好きな親切なお兄さんだった。敦賀駅前の喫茶店「しずおか」で、客のいないのをいいことに着替えをし、ビールで乾杯。ことさら長く感じた山旅は終わった。
帰りの列車では、またまたウイスキー。木之本駅に着いたのは覚えているが、発車したのは知らない。
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