能郷白山(早春の白き山)

 三月も終わりに近づくと、美濃の山々にも春がやってくる。低くたれこめた雪雲が北の空へ去ると、まだらにに雪を残した雑木林は一斉にに芽吹き、暖かな日溜まりには早くも野の草がつぼみをふくらませ始めるのである。谷間には雪崩の音が轟きわたり、風はいたるところでかろやかな早春の詩をかなで始める。だが、木の間越しに望む遠くの山々の連なりはまだまだ白く燦然と輝いているのだ。

 僕たちは、そんな早春の限りないきらめきの只中にある山々の頂をワカンとアイゼンをしのばせた大きなリュック背負い、スキーを担ぎ目指そうと云うのだ。

3月20日(晴れ、しかし風強し)
 朝6時、重いリュックと長いスキーとまだ意識が定まらぬ旅人を乗せた車は美濃神海を発った。闇からさめたばかりの空は淡く、周囲の山々はまだまだ黒々として眠りからさめていない。車道に沿って流れる根尾川だけが雪解の濁った水にざわめいている。車は快調に幾つもの村落を抜け、樽見、市場を過ぎ門脇にさしかかる。すると突然、車窓いっぱいに大きく白い山がひろがる。もちろん、能郷白山だ。それにしても、何時眺めてもでっかくて高くて遠い山だ。そして、「又きたぜ」等と気障っぽく会釈でもしたくなるほど美しい。

 能郷で車は本流を離れ、能郷谷へと入る。広い谷は一面雪で被われ、その真ん中に除雪された林道が黒い単調な曲線を描きながら小谷出合まで続いている。

 車を降りると、朝の冷気が全身を包む。早春の陽に煌めき始めた谷間に立ち、先ずは山の大気を思う存分吸い込んだ。そして、これから辿るべき方向に目を向けるのであった。そこには、豊かな雪解の水の流れと、白と褐色が混ざり合う雑木林で被われた斜面ががあり、一番奥には大きな雪庇をつけた白い稜線が横たわっている。

 7時5分、テントと二日分の食料、それに少しばかりのアルコールを詰め込んだずしりと重いリュックを背負って雪の林道へ足を踏み入れる。早朝の雪面は堅く締まり、時々山靴が心地よくキューキューと鳴った。斜面は至る所で雪崩を起こし林道を塞いでいる。雪崩の跡には決まって蕗の薹が「もう春ですか」と半信半疑で頭をもたげ、その上ではまんさくの黄色いつぼみが「もう春です」と冷たい風に震えている。そんな早春の谷を、早くも額に汗をにじませ、列となって足跡を印して行くのであった。

 しかし、決してあわてたりはしない。僕たちは、ことある毎にリュックを放り出し休んだ。リュックの上で仰ぐ空は、果てを知らぬかのように高く蒼い。流れ行く雲に時を忘れ、頬をかすめるそよ風にふと何もかもを忘れてしまいそうになる一時である。みかんを食べ、チョコレートをほうばり、暑いと云ってはセータを脱ぎ、そしてまたリュックを背負うのであった。

 9時45分、小さなツエルトが一張りある登山口に着く。ここで、谷を渡り林道を離れる。とたんに斜度は増し、本格的な登りとなる。吐く息は激しくなり、汗はしずくとなって頬を伝い流れ落ちた。けれども、目指す頂のことを思うと一歩一歩が次第に確かな足取りとなってゆく。

 10時20分小さな枝尾根の上にでる。すると、早春の冷たい烈風が「よお!」とばかりに痛烈な出迎えをしてくれる。両手を広げて返礼すると、風はますます調子に乗ってゴウゴウと唸った。そんなすざましい尾根を重いリュックと長いスキーにあえぎながら一歩一歩と登り詰めて行く。時々立ち止まっては高まる心臓の鼓動を静め、また一歩踏み出して行く。高度は、着実に増してゆく。

 とうとう郡界尾根に達する。時計を見ると11時30分である。世話になったピッケルを雪面に刺し、リュックを降ろしとにかく一休みだ。呼吸を整え改めて周囲を見渡すと、山ばかりだ。風はいよいよ激しさを増し、いたるところでビューンビューンと騒ぎまわっている。

 僕たちは、郡界尾根上の小さな凹地で昼食をとることにした。凹地に輪になって風を避け、いつものようにパンをかじり紅茶をすすった。20分ほどの短い昼食だけれども、楽しい一時であった。

 12時10分再びリュックを背負う。幾分か風のおさまった広くなだらかな郡界尾根を、先頭を交代しながら快調に辿って行く。左手には何時も白い三角形の磯倉がある。何度も、横目でチラチラとその誘惑的な姿を見る中に、いつの間にか「よし、明日はあそこまで行こう」と勝手に決めてしまう。そんなことを考えながら1時間ほどで前山の取り付き地点に達する。標高で云えば1300mのところである。今日最後の登りは、高度差150m、水平距離600mである。急斜面とまでは云えないが、疲れた体にとってはきつい登りである。ピッケルを雪面に突き刺し一歩一歩斜面を踏みしめて行く。高度はすごい勢いで増していく。左へ右へと視線を向け、時には振り返っては次々と姿を現してくる山々を眺める。

 2時30分遂に前山の頂に立つ。何もかも放りだし先ずは山々を見渡そう。ここは、標高1500mの誰もいない誰も来ない俺達だけの世界一贅沢な展望台だ。北の空には加賀白山から別山にかけて、たおやかな山々が連なっている。東に目を転ずれば乗鞍と御岳がすっくと立ち、その遙か彼方には北アルプスとおぼしき白い山脈が陽炎のような不確かさで横たわっている。眼下には美濃の山々が累々として重なり合っている。勿論眼前には、能郷白山が恐ろしいまでの白さで屏風のようにそびえ立っている。

 3時5分頂上直下の小さな枝尾根の付け根上にテントを設営することにした。やがて、夕食の用意が始まった。一夜の宿にしては立派すぎるブロックの横ではコッヘルから白い湯気がこぼれ、その横でWさんが明日のためにと標識を作っている。Yさんはスキーを担いでもう一滑り。そうこうする中に夕暮れはせまり、陽は磯倉の右の肩へと消え去っていった。西の空は、残された光と迫りくる闇の狭間にあって、刻々と色調を変えながら燃え尽きていった。それに替わって、東の空では星々が語る壮大な物語の幕が切られようとしている。
 (以下略)

   ▲top