高賀山
西原 清一
11月9日(土)
新岐阜バスセンターを午後1時過ぎに出発。まず、洞戸栗原(ほらど)まで行き、杉原行きに乗り換える。もう何度か訪れたところで懐かしい。阿部という部落で降りるのだが、バス停の名前は木作(きづく)という可愛い名前である。今回の目的の高賀山は、高賀三山(ほかは瓢ケ岳、今淵ケ岳)に起こった山岳宗教の中心として栄えた山である。
木作を出発したのは午後4時。板取川にかかる高賀橋を渡る。川中に巨岩が横たわる景勝の地である。しばらく板取川沿いに遡ると、車道は自然に高賀川の方へと導いてくれる。裸木となった桑畑を過ぎて、牛戻橋を渡る。車一台が通れるほどの簡易舗装道がつづく。途中、墓地があり、地蔵が立っている。石碑には三界萬霊等、嘉永七年の文字が見える。
やがて、高賀谷養魚センターを過ぎると、高賀(上外戸 かみがいと)の部落に入る。宮までの道程のちょうど中間である。ここには蓮華蓬寺(れんげぶじ)(観音堂)があり、平安後期の仏像数体が薄暗い本堂に安置されている。高賀神社より神仏分離された本地仏の一部である。この後、道は渡蔵橋(わたぞう)で左岸に渡り、さらに10分ほどで宮の部落に着く。つるべおとしの晩秋の日は、弱い光を残して山の端にかくれた。急いで幕営地を探さねばならない。急に寒くなってきた。
11月10日(日)
まず高賀神社に立ち寄っていく。巨杉が10本ほどそびえている下を、鳥居に導かれ石段を数十段登ると拝殿となっている。その奥に本殿が二社あり、右が大本神殿、左は八幡社とのことである。主神はイザナギ、イザナミ。
ここには、昭和48年に収蔵庫が完成。ちょうど拝観の人が居合わせて、まもなく管理人が来られるということだったので、我々もついでに便乗させてもらう。収蔵庫はそれほど広くはないが、真ん中の神輿を囲むように三面の壁に神像・仏像群が並び、我々はここに神仏混淆、本地垂迹の事実を目の当たりにすることができる。中央壁面には六神像が幕の奥に鎮座し、ちょくせつ目にすることはできない。しかしこれらは先に述べた主神ではない。左右の壁際には仏像、とくに右壁にはこの高賀神社を有名ならしめている円空仏に接することができる。円空は時代が下がって江戸前期、美濃(岐阜羽島)出身の僧である。12万体の仏像を作ることを発願し、諸国を巡ったという。2メートル近い十一面観音をはじめ、聖観音、狛犬など、前衛的ともいえる独特の粗い彫法は、素朴な暖かさ、峻厳さなどが渾然一体となった不思議な雰囲気を湛えている。子供たちが大きな円空仏を筏がわりにしたり、縄を付けて遊んだりしていいおもちゃとしたという、それもうなづけるようなニヒルに近いのんきさ、すごさである。ほかに、懸仏、和鏡、円空筆とされる和歌集など門外漢にとっても興味を惹かれる。
ところでこの高賀神社は、退魔伝説と切り離せない。「高賀宮記録」、「洞戸村誌」には縁起の記載があるという。かいつまんで言えば、瓢ケ岳の妖魔を勅命により退治した(霊亀年間、715〜716年)という伝承、さらに、藤原高光(たかみつ)が再びあらわれた妖魔の魂を勅命を受けて退治した(天歴年間、947〜956年、村上天皇)という伝承の2つに大別される。有力な地方豪族を中央集権の波が襲っていくさまが目に浮かぶ。高賀神社は最初の事件の時に創建を見、下って2度目の高光退魔のときにもう一社が追加(八幡社のことか)され、また退魔随縁の地に現存する五つの神社が追加創建されたという。このとき、加護を受けた権現の本地仏が虚空蔵菩薩ということであろう。この六社がのちに高賀修験道の中心として栄えたのである。
由来、地方豪族の征圧にはまず山を征するというのが常套だったのかもしれない。そこに中央からやってきた神を祀り、その地方ににらみをきかす。山は、その地方を睥睨し、国見をし、また砦ともなる重要な拠点となる。なによりも土民にとっては、稲作に欠かせない水の源であり、天候を司る神そのものとして、あがめられ、また恐れられたであろうことは、考古や考証を超えてごく自然に推察されるところである。おおよそ農耕民族とくに日本人は、平和あるいは平穏を好み、正義には価値を置かない傾向があるようだ。したがって権力者が交代しても一向に意に介さない。新しい統治者がどんな権謀術数で権力をものにして行ったか、そんなことには関知しない。ただその交替期の混乱をのみ恐れおびえるのである。中央集権の発想は大陸から学んだものかと憶測するが、日本ほど征圧が容易な国はなかったであろうと思うのである。第一次退魔が奈良朝という全国的な中央集権国家の成立期に当たり、第二次退魔が、事実上の実権掌握者であった藤原氏がまさに全盛期を迎えんとする時期に当たるというのは、素人の牽強付会に過ぎないであろうか。
神殿に足を運ぶと、いなか風の初老の夫婦が参詣に来ていた。奥さんが十年前に腸を患い数回手術を受けた。ある夜、見たことのない神社が夢に現れて、健康を取り戻した。ところがそれが高賀神社であることが後に分かり、それ以来、年に一度はお参りに来るのだという。神殿前の玉砂利に素足でぬかづいて、老婆は冷気の中に長い時間拝んでいた。小声で般若心経を唱えるのが聞こえた。
昨夜の幕営地に戻り、出発したのは10時前であった。新しい林道がミサカ谷左岸の山腹を延びつつあるが、登山路は右岸沿いなので、適当なところで谷を渡らなければならない。コナラなどの雑木体となり、力石(ちからいし)、こりとり場(垢離取り場)などの標識を過ぎる。途中、左へ分岐する明瞭な小径があるが、これはどこへ通じているのだろう。送電線巡視路か、それとも加那峠へ至るのか。旧五万図(昭和42年、八幡)では、この加那峠は御坂峠と誤記されている。正しくは五万図「美濃」にあるのが御坂峠なのだが、そちらには記載がない。なお、新しい地図(昭和47年発行)では、峠の記載はすべて削除されている。少なくとも誤りではなくなったのである。
対岸は伐採が進んでいる。かつての雑木林の紅葉の美しさが偲ばれる。それでも、徐々に登るにつれて、我々は紅葉、黄葉の真っただ中にあった。やがて岩小屋に到着した。まず、2〜3人が泊まれるほどのがあるが、さらに十数メートル進むと、同じく径の左側に本格的なのがある。休憩だけなら10人以上は十分に収容できそうだ。どちらも立派な岩小屋だ。昔、若狭の八百婆が来て褌を洗ったため神罰が下り、岩が割れてできたものという(冲 允人氏の報告による)。八百婆とは八百比丘尼のことであろうが、それにしても褌とは変だし、全体としてあまりに断片的で漠然とした伝説だ。この岩小屋から径は小さい尾根を巻くように右に続いているので注意しよう。ついそのままガラ場を登って行ってしまいそうになる。
ここから半時間も登れば御坂峠である。ふりかえると高賀の谷が美しい。峠の展望は郡上八幡側はよくない。ここで高賀山を往復する。小径はハッキリしており、すっかり葉を落とした雑木林の中の快適な尾根であるが、頂上までは半時間ほどかかる。頂上は雑木の間から御岳などが望まれる。おおむね北方の展望がよい。一等三角点のそばの石碑には「金光明最勝王経・天保十二年八月」とあり、妙見大菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩と読める。峠へ戻り、遅い昼食とする。肌寒い。峠から今度は反対側に峰稚児(みねちご)神社を往復する。急登であるがすぐ着く。大岩の上に小さな祠が載っている。大樹に囲まれたその前は、護摩を焚いて祈祷でも行われたのか、小広く開けている。近くの石碑には「壱萬五千之神霊社」とある。思うに、むしろこちらが本当の奥ノ院として中心だったのではないだろうか。
再び峠に戻り、帰路を郡上八幡側へとる。旧道はほとんど消えているが、急斜の中にケルンが要所に積んであり、とにかくまっすぐ下っていけばよいので迷う心配はない。樹林帯が空を覆い、洞戸側に比べれば陰気でひっそりとしているが、下生えはなく夏は涼しいことだろう。洞戸側と八幡側とは、陽と陰、乾と湿、灌木と喬木というように性格が正反対だ。ところどころ旧道が現れ、雑草が出てくると径も明瞭となる。おおむね左岸沿いである。やがて一軒の家が草ぼうぼうの中に突然現れ、ぎくりとさせる。これは林業の作業小屋で、新しい五万図「八幡」にちゃんと載っているのが面白い。
ここまでくれば那比神社はすぐである。那比本宮は、とつぜん左手の樹林の中に目に飛び込んでくる。小さい支流を横切ると神殿前に出る(図参照)。巨杉に間に参道がしばらく続く。二つ続けて橋を渡ると宮洞(みやぼら)本流の右岸に出るが、すぐ山手へ小径が分岐している。立て札を見ると、「那比新宮へ」とある。この那比神社の本宮と新宮はともに先に述べた高賀修験六社に含まれる。ここから車道に出るまではヒタヒタと気持ちのよい右岸沿いの道である。車道に出てから半時間ほど小谷津(おがいづ)のバス停に着く。宮洞谷と那比川との出合いは高畑の村落で、温泉がある。高畑下(バス停の名)からのバス便は日に3本だけ。長良川沿いの国道に出るには、歩くと3時間近くかかるが、いくら歩くのが趣味と言ってももうあきあきしている。郡上八幡からタクシーを呼ぶことにした。国鉄駅は美濃相生であるが便が少ない。バス便の方が多く、我々もちょうど5時半の岐阜行きに間に合った。
【補足】高賀修験道の六社:高賀神社、那比本宮、那比新宮、星宮神社、
金峰神社(美濃市片知)、滝神社(美濃市乙狩)
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