木の芽峠

 木の芽峠は亡び行く峠である。国8号線が北陸の大動脈となり、栃の木峠が整備された今、最早行き交う人はいないのだ。亡び行くものを元に戻そうとは思わないが、過ぎ去った時を想い、通り過ぎて行った人々を想い峠路を辿るのは、ゆかしいものであった。

 タクシーを降りた二ツ屋からしばらくは林道行くが、1時間ほどでつきる。すると峠路は鮮やかによみがえるのであった。営々として人の手によって刻まれてきた路は細くて控えめであるが、決して途絶えないと云う安心感がある。だが、亡び行くものは寂しげである。長大なシンフォニーの最終楽章も終えてしまったのだ。最早カーテンコールさえも鳴り止んでしまったのである。残されたものは深い溜息と微かなどよめきだけなのだ。

 ゆるやかに、ゆるやかに谷を遡っていた路がその傾斜を増し始めると尾根への取り付きである。一汗かくと、峠状の尾根上に立つことができる。だが峠はまだ先であった。路は谷の源頭部をほぼ水平に横切って峠に向かっている。途中、仇討ち伝説で有名な「言奈地蔵」を過ぎる。地蔵堂の横にある石柱には「若狭八十八カ所中第十三霊所」と刻まれている。さらに谷を横切ると20分足らずで峠であった。一軒の茅葺きの民家と石畳のある峠であった。民家には人の気配は無く周囲は静まりかえっているばかりである。ここが、幾たびか歴史を変える戦いがあったとは思えない程細くて小さな峠であった。民家の前にはこの峠には不釣り合いな程大きな道元禅師の碑がたてられている。

 鉢伏山へはここより北西にのびる尾根を辿ればよい。すっかり葉を落とした木々の間より望む山々は最早初冬であった。秋から冬にかけての変身は鮮やかである。ある日突然北風が吹き抜けると雪は音もなく降り始めるのである。変身を終えた奥美濃の山々は白く輝いていた。だが、それにも増して大きく白いのは加賀の白山だ。

 「三角点鉢伏山」は意外にも難解であった。かの有名な「清水氏の三角点の定理」(注1)をもってしても解き得ないのであった。未解の方程式を残したまま僕たちは山頂を去った。

 峠の下りはのんびりとしたものであった。と云うのは、最近この峠を越えた山の仲間からバスの時刻を教えてもらっているからである。それに、色鮮やかな木々の実は僕たちの足を引き留めるには充分な魅力もっている。中でも「むらさきしきぶ」は名実ともに美しい。それにしても、この様な優雅な名前と宝石の様な実を持つとは幸せものである。もう一人幸せものが足下に実を付けていた。「一人静」である。花期はとうに過ぎてしまっているが、名前だけでもひとを引きつけるに充分である。

 木の芽川最奥の村「新保」には4時半頃に着くことが出来た。鉱泉と陣屋の跡がある村であった。哀れは水戸の浪士武田光雲齋である。蝿帽子峠を越え木の芽峠を越え京に向かったのは雪深き元治元年の末であった。だが、志半ばにしてここ新保で捕らわれたと云う。辞世は「片敷きていぬる鎧の袖の上におもいぞうのる越の白雪」であった。

 幾たびか戦乱の渦に巻き込まれた新保の村は平和そのものである。もう二度とわきかえることはないであろう山里は、何事も無かったように暮れゆく晩秋の柔らかな入り陽に染まっているだけであった。

(注1)「清水氏の三角点の定理」
 横に広い山頂においては、三角点は山頂の中央ではなくその端に設置されていることが多い。これを清水氏の三角点の定理と云う。その訳は、清水氏曰わく「三角点の石柱を運ぶおっさんがしんどいので何時も端っこにあるのや」である。理由はさておき、三角点が山頂の端にあるのは三角測量法からも合理的であると思い、私が命名したものであります。

(注2)
 最近木の芽峠を訪れたのですが、意外にも峠は観光地になっていて人々で賑わっていました。例の峠の民家も茶屋けん土産物屋と化し、入り口にはここの当主前川家が平家の末裔であることを示す平家アゲハの鮮やかな紋が染めてあるのれんが掛かっていました。中に入ると夏も近いのに囲炉裏は焚かれ、その前には何代目かの当主がおられ、峠や茶屋のことについて講釈をされておられました。

参考文献
 1.「山の言葉」:森本次男著
 2.「近江の峠」:伏木貞三著
 3.「秘境奥美濃の山旅」:芝村文治編著
 4.「福井の山と半島」:福井大学W.V.OB会

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