冠山−シタ谷−(回想の谷)

7月17日
 このまま降ってしまってもいもいのだけれど、シタ谷の下流のもうヒン谷との出合に近いちょっとした河原を露営地に定めた。最早振り返ってても冠山も鋸歯と呼ばれる荒々しい岩稜も望むことはできないけれども、今日一日の出来事を癒すには充分すぎる程の山の霊気に包まれてその河原は深としていた。それに多くはないが一晩くらいはもつであろう流木もあった。やわらかな砂地は心地よいしとねとなろう。そして静かな瀬音に今宵の夢路を託すのもいいだろう。

 暮れゆく谷間には蒼然とした斜光が流れ、夜気はためらいがちに大気を侵し、大地を鎮めて行った。やがて鎮まりきった谷の底では、小さな焚き火を囲んで夕餉が始まった。飯ごうの飯とパックのカレーだけの食事だけれども楽しい団欒であった。そしていつの間にかささやかな宴が始まった。釣ったばかりの一匹のあまごとザックの底にしのばせたわずかの酒はアルミの食器のなかで骨酒となり宴のの輪を幾度か回り喝采をまきあげた。僕は、今日登ることができなかった滝のことを想いながら昨日の残りのウイスキーをチビリとやりながら輪の中の火影を見入った。炎はかすかに谷底を這う夜風にゆらめいていた。わずかのウイスキーに酔うはずもないのに、流れ過ぎていったことを想うといつの間にか僕も炎と一緒にゆらめき始めていくのであった。

 あれは、1972年頃から始まった奥美濃狂いである。僕たちはほとんど毎週、気でも触れたかのように奥美濃とよばれる山塊へ通い続けたのだ。ある時は藪の尾根を伝い、ある時は連続する滝をよじり人知らぬ頂を目指したのであった。今日と同じようにシタ谷から冠山を狙ったのは73年の夏のはじめであった。シタ谷とヒン谷の出合に野営して頂きを目指した。その夜は七夕であった。狭い谷間からは、銀河の雄大な流れは望むべくもなかったけれど満天の夜空であった。短冊に願いを記し谷の瀬に託した夜であった。

 明くる日は朝早く発ち、快調に滝をよじり瀬を渡り着実に高度を上げていった。そして最早頂きは俺たちものだと思われる程山稜が間近にせまり、谷が窮まった時一つの巨爆が流れを断ち切っていたのである。それは、百米は優に越えているであろう垂直の岸壁を両岸に従え僕たちを見下ろしているのであった。ただ唖然として白い飛沫となって流れ落ちる奔流の前にしばし立ちつくし、その場から逃れるように去ったあの日であった。

 あの日から多くの日々が過ぎ、足跡を印した山々も70を越え地図は朱線で赤くなった。けれどもシタ谷に記された朱線は、あの日以来あの滝で止まったままである。勿論忘れてしまった訳ではない。雪が山々から去り、谷の瀬が日のひかりにさわぎ始めるとあの滝のことが思い出されるのであった。何度も地図を拡げては爆流を想い、それを越えると辿り付けるであろう冠平のたおやかな草原を思ったことか。

 そして今日だ。再び2本のザイルにハンマー、ハーケンを引っさげて来たのだ。今こそあの滝を登らないでどうするのだ。ザックからザイルとハーケンの袋を取り出した。だがハンマーが見当たらない。この時始めて朝のパッキングの時最後に入れるはずだったハンマーを小石の上に置き忘れた事に気が付いたのである。だが諦めらめても諦め切れない。残置ハーケンが在るかもしれない。わずかの可能性を求めて、ともかくも滝に向かった。だが、ハーケンを見つけ出すことは出来なかった。飛沫は霧となって降りかかり、爆音は両岸の岩壁に響き怒号となった。僕は、呆然として冷たく濡れた陰惨な岩にへばり付いているだけであった。

 今こうしてゆらめく炎の前で過ぎていった一日を想うと、山々を巡り歩いた日々のことが想い出され、時の流れは幾たびも交錯し、重なり合い、脳裏深くに沈殿していた記憶と云う結晶はきらめき始めるのであった。宴は続き、榾は尽きることを知らぬかのようにパチパチと暗闇に音を立て火の粉を散らしている。「さあ眠ろう」と僕は宴の輪からぬけ出た。あとはただ柔らかな砂地をしとねに今夜の夢路をシタ谷の瀬音にたくすだけだ。

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