金糞岳

金糞岳(金屎岳、白谷・深谷)
西原 清一   

1974年5月5日(日)曇り  京都から近江高山までは、丁度3時間かかる。高山の観念寺をのぞいた。説教の最中で、聴くともなしに聞いていると、「人間には逆境が大切で、それを乗り越えることにより成長する」というような話であった。本堂の前を犬が走り、鶏が鳴く。ツバメが飛び交い、カエルが鳴く。子供らが騒ぎ、お和尚さんの盆栽が並んでいる。静かであった。
 高佐屋で牛乳を飲んでいると、表に自家用車が停まり、降りてきたのはなんと清水氏ではないか。あれー、彼は今ごろ平家岳辺りへ行っているはずなんだがなあ。もっとも自分も、今淵ヶ岳へ行くつもりだったのだから向こうも変に思ったに違いない。あちらさんは、一家して金糞岳へ登り、今から帰るところという。ビールで山行の完了と前途をお互いに祝し合って別れた。
 相変わらず雲が重いが、雨はやんだようだ。二股(ふたまた)はもう何度来たことだろう。今から目ざす鳥越峠に車道が通るとかで、高佐屋はここに出店を設けて、商売拡張を図っている。二股は以前、出作り小屋(?)のあったところで、ここから西俣谷の奥にポッカリと頭をもたげているのは己高山だ。橋の手前を右に折れ、単調な東俣の林道を小一時間ほど歩く。若葉の候とて、雨上がりに映える鮮やかな緑の中を進む。ヤマブキやスミレが道端に咲きこぼれ、生命を謳歌している。見覚えのある追分の橋(出合から少し白谷へ入った地点)の手前から白谷へ入る。川を跳び越え、大岩を過ぎるとすぐ、木漏れ日の揺れる気持ちのよい林となり、ツバキの傍らに中津尾の登山口がある。これを尾根へ登ってゆくと帰路にたどる予定の中津尾である。一方、右の谷沿いの道を10メートルほど行くと、岩陰に地蔵さんがある。小さな石段の上にあり、これを新九郎地蔵という。また、この鳥越峠の道を新九郎坂という。これは、明治15年頃、この地方の庄屋であった山脇新九郎という人が、美濃坂内村とを結ぶため私財2万余円をなげうって開削した道である。新九郎は彼の父と共に、数々の善政を行ったという。東浅井郡志(ひがしあざいぐんし、ママ)(巻3)を読むと、事業と政治を大きな目でとらえていた一個の人間が行間から浮かび上がってくる。
 さて、地蔵のすぐ先で道は二分しているが、左の山腹道が正しい。二・三度ジグザグをくり返し、瀬音をかなり下に聞くようになったところで、街道を想わせる坦々とした山腹の小径となる。狭い割には明るい谷で、清冽な流れが白く岩をかんでいる。ところどころ炭焼きの石組みの跡があり、カヤト状になったところにはワラビを見つける。最も渓谷らしいところは、オワラ谷との出合辺りである。樹陰から赤滝の15メートル程の白い水柱を垣間見る。本流にもいくつか滝や瀬がかかっている模様である。小径はなおも明瞭に続き、谷奥の深い切れ込みに目をやると、奥にゆくほど色を失い、行き詰まりは灰色の雲に被われている。穴谷が近くなったころ、谷に降り立った。旧道は流れを10メートルほど下に見ながら右岸にしっかりついているのだが、ほとんど廃道に近く、灌木が横に張り出していて歩きにくいためである。  谷が狭まり、雪のブロックが現れ、やや凄惨な感じになってきた。木々はやっと新芽を吹き出したばかりで、地表にはフキノトウやショウジョウバカマなど、ここは春が来たばかりなのだ。谷沿いに進んで行ったが、やがて分岐し中間の尾根にジグザグのはっきりした道があった。ここまで一応旧道は続いているのだが、この谷分岐のまえ半時間ほどは谷を歩く方が楽である。道は二・三回折り返すにつれて、ますます街道状の明瞭なものとなり、やがて小窓のような鳥越峠に到着する。  峠は雪に被われ、両側は馬の背状に切れている。千メートルを超すこの峠のなんと狭く余裕のないことか。砂時計の首部分のように、両側の谷をつなぐこの峠は、いつもこうなのだろうか、恐ろしいほどの強風が裸樹を騒がせている。鳥越峠 − このエッジ状の窓を、腹を擦るように越えていく鳥たちが目に浮かぶ。峠から西のやぶ尾根に切り開きがあり、20分ほどで小朝の頭のやや北寄りのところで中津尾の登山道に出あう。その日は、そのまま中津尾を急いで下り、追分で泊った。

5月6日(月)晴れ
 今日は深谷(みたに)から金糞岳に登る予定である。追分(白谷出合)の橋を渡って車道を行く。前方に白倉(シラクラとも)付近の深緑の尾根が見える。白いまだらは残雪である。車道はダムまでで、その先すぐ、渕の上に危なっかしい橋がかかり、右岸に出る。径はしっかりしている。一度、流れを渡り返すと千石平である。名前から想像するのとは大違い。キャンプ用の広い平がある訳でもない。ここからすぐ、岩ガ谷の出合に着く。谷の入口の林の梢ごしに白い露岩が目につく。径はこの支谷に少し引き込まれるが、すぐ本流を見下ろす径となる。連状谷を過ぎた辺りは幕営によい。また、その先、流れを渡ってくずの輪平を過ぎた杉林は、この谷で最も快適な幕営地である。深谷には釣り師も入る。距離的には全体のちょうど半分くらいであるが、ここまでは1時間もかからなかった。
 雑木帯となってしばらく進むと左手に大きく下津久枝谷(しもつくしたに)が分れている。初めはこれが本谷かと思った。ノボリ尾の山腹は萌黄色で、青空との境界付近は赤味がかっている。ところどころ白っぽい塊りに見えるのは山桜で、まさに春の色である。振り返ると奥山△1057の北東面の大きな雪渓が目に入る。谷は、これから5回ほど立て続けに渡渉するにつれて、徐々に傾斜を増してくる。うす鯉平は小朝谷の出合付近であるが、ここからは白倉峠がぐっと近くに見える。本流と見間違うほど水量の多い大朝谷出合から、径は中間尾根についている。この尾根はヤセ尾というらしい。しばらくこのヤセ尾を登ってから、再び本流に向けて山腹を巻くようになる。アザ谷の小さい流れをとび越して本流へまわりこむと、両側から急斜面がせまり日当たりの悪い狭い谷となる。雪のブロックも現れ、一気に源頭の雰囲気になる。ついに谷底に下り立つが、谷を埋めた雪が解けて、中が空洞になっている(マンボー)ため危険である。この辺は、大雨のときなどは通過困難であろう。急な谷も、右に枝谷を分ける辺りに、少し平坦な日だまりがあった。この一帯はワサビが豊富で、今は葉も小さいが、夏ころにはびっしりと谷を埋めることだろう。登るにつれて、南に天吉寺山、長浜付近の琵琶湖岸、そして伊吹山などがつぎつぎと見え出す。琵琶湖には葛篭尾崎の先に竹生島も望まれる。最後の雪渓を過ぎて、つめのジグザグ道を10分も進むと白倉峠(オオセコとも)であった。ここから金糞岳へはササの中の踏み分け道を20分ほどである。峠の反対側の尾根には径はない。
 金糞岳は標高1314であるが、三角点は置かれていない。そのかわり、それよりずっと立派な金糞愛保クラブの石碑がデーンと立っている。展望があまりにも素晴らしいと、山頂に近づく一歩一歩を大切にしたいような、あるいはどんなに満喫してもし切れないまだ何かがあるような、一種の倒錯した焦燥に近いものを感じることはないだろうか。今日の金糞岳頂上がそうであった。ついでに白倉△1270へも足を延ばしたが、かなりのヤブこぎを強いられた。前日は小雨、今日は快晴、澄明な空気に一斉に萌え出した若葉。残雪をいただいた奥美濃の山々がこれほど美しく見えたことはなかった。白一色の加賀の白山の本峰から別山んびかけての山嶺が印象的であった。丁度いま別山に登っている友の姿を想っていた。