梅雨の晴れ間の洞の天井
西原 清一
絶望的な天気であった。一日中、小雨が降り続き、いざ家を出るときにはどしゃぶりである。考えてみれば、6月のこの時期に奥美濃の、それも洞の天井(△1333)などという山を計画すること自体、リーダーの精神構造を疑うに充分である。もっとも、そういう例会にちゅうちょせず参加した人もなかなか並みの神経の持ち主と思われないが…。いずれにしても、その無謀さに天気の方もあきれはてて、つい雨を降らす手がゆるみ、そのスキに乗じて駆け抜けたような山行であった。
1977年6月17日(金)雨のち曇り
米原で乗り換え、再び大垣から樽見線に乗り換える。大垣では小雨が降っていたが、美濃神海(みのこうみ)に着いたときは一応やんでいた。しかし、風は無く、いかにも梅雨らしい湿った空気が皮膚に粘りついてくる。例によって、深夜の待合室で酒宴である(どうしていつもこうなるのだろう)。その最中に、岐阜のヤナガセから来たというヘンなおじさんの飛び入りがあった。そのオッサンもだいぶメートルが上がっていたのだろう、こちらの誰かれとなく意気投合したがっていた。大変に調子ばかりがよくて、それでいてちっともかみ合っていない会話のやり取りを聞いていると、面白いやら、うす気味が悪いやら、だんだんわけが分からなくなってくるのだった。
1977年6月18日(土)曇りときどき小雨
5時に起床。予約しておいたとおりに6時過ぎにタクシーがやってきた。神海から、根尾川に沿って走る。樽見からは根尾東谷に入り、いよいよ奥美濃の核心部へ、未知の世界へと進んでゆく。こう書くとまるでジープでアフリカの奥地を探検しているように思われるかも知れない。しかし、ところどころ道が崖崩れで不通のためしばらく川床を走ったり、自動車の底が石に当たったり、窓のすぐ横を落ちている滝の水しぶきがかかったりで、そういう雰囲気は満点である。上大須を経て、今は廃村となった越田土(おったど)を過ぎる。すかさず「昔は人が住んでオッタド」というシャレが飛び出すが、あまりにクダラナイせいか、それとも寝不足のせいか皆ボンヤリしていて反応がニブい。
やがて、「ここやー」とリーダーの大声があって車を降りる。目指す谷の出合である。天気の様子はというと、どうも見通しは真っ暗。ここで、ゆくかもどるかの議論となり、リーダーのツライところである。結局、一番眠そうなEさんあたりが行く気になっているようで、「ほな、とにかく、行けるだけ行ってみようかあ」という何ともシマラナイ結論となった。さっそく、ワラジを着けて、水を蹴散らしながら出発である。一行の間で、ワラジのことをホケン(保険)と呼ぶことが流行りだした。つまり、「着けていなくても歩くことはできるが、着けるに越したことはないし、第一安心である」という意味である。ちなみに、釣り師の使う、滑り止めのフェルトが底張りされている地下足袋は、「イザというときには大して役に立たないが、無いよりはまし、第一着脱の手間がかからない、だからカンイホケン(簡易保険)」とこうなるのである。
歩き始めて10分もしないうちに、6mの立派な滝に出くわす(A地点)。右の岸壁の間を巻く。ほどなく、4m、3mのナメ滝、さらに3mの滝とつぎつぎに現れる。谷は清潔な感じで、どれも美しい滝である。しかし、岩はぬめりがあって滑りやすい。それ以後、滝らしい滝は少ないが、大岩が組み合わさった滝状の瀬が連続し、岩を跳んだり伝い歩いたりして進むのは楽しい(B地点)。ナナカマド、ホウ、トチなどが程よく空を被い、規模の大きい日本庭園を遡行している気分である。空模様はいよいよあやしく、降らないのが不思議なほどである。やがて、山肌が崩れて、谷が白っぽい岩石や土砂で埋まり、やや荒れた感じになっている辺りで休憩。ふり返ると厚い雲を被った高屋山方面の山腹が対峙している。
再び出発。白い大岩がゴロゴロして、小広く開けたところに出る。そしてすぐ、いきなり狭いゴルジュ状の谷になる。高度750mの辺りである(C地点)。この急激な谷相の変化は、丁度、明るい大通りから、ビルの谷間の狭い路地に入るような感じである。とにかく、赤い岩肌が階段状にぐんぐん高度を増しつつ続いている。まるで巨大な恐竜の食道を攀じ登るようだ。下生えはゼロ。すべてが岩盤のため、むしろ人工的な印象すら受ける。前もって地図を見ているとき、等高線が密に詰まっている谷の核心部の様子をいろいろ予想していたが、実際に来てみると、それらのどの想像とも異なっていた。これなら案じていたよりもずっと容易に登れそうだと思った。それでも、泡立っているナメ滝4m、さらに3m、4mと小滝が連続する。谷が狭いので、高巻きはできないが、幸い手がかりが多いので楽に登っていける。やがて、この谷最大の滝に出合った。2段になっており、上は10m、下は15mほどか。ポパイが下の一段を登ってみた結果、直登不可能とわかったため、他は左の支谷に入って高巻くことにした。ここでしばらく3つのグループに分散し、再び本谷に全員が揃ったときは、正午をまわっていた。
昼食ののち出発。ほどなく谷を離れ、灌木の中の急登となる。右に崖の気配を感じながら薄暗い急斜面を枝につかまりながらよじ登る。ササが現れてから半時間ほどで、ようやく主尾根に出た(D地点)。空はほんの少しでも刺激を与えるとすぐにでも降り始めそうな様子である。尾根は広く広葉樹が茂り、背丈を越すササの中に池塘状のくぼみがあり、陰気なことこの上ない。ふと前の人を見ると、細長いヒルがついている。思わず自分の手を見るとやはりいる。ここでしばらくヒル騒ぎとなったが、今ふり返るとこのとき一行は少し疲れていたように思う。
再び、今度は西ヶ洞本流を目ざして、溝状の支流を下る。やがて、目の前が開け、突然すぐそこに西ヶ洞の清流が豊かに音もなく流れていた。口々に感嘆の声がもれる。ついに来たのだ。暗い谷を抜け、泥と雑木の急斜面に足をとられながら、ようやくこのおだやかな桃源郷に出たのだ。あとはゆっくりテント地を探し、焚き木を集めるなり、魚釣りをするなり、河原に寝転ぶなり、自由だ。とにかくもう苦しみは去った。皆がそういう思いだったに違いない。ライオンによると、下流1キロ足らずのところが大滝群の巣になっていて魚は登って来られないとのことで、いかに彼でも魚のいないところでは釣れないそうだ。してみるとここは本当に、人間の世界から隔絶された別天地なのである。
空を圧する巨樹が三々五々、佇立する中、白い河原にテントを張り、Wらの奮闘による大きな焚火を囲んだのは6時頃だった。歌声が暗い森の中へ流れて行った。このような時間を共に分ちあうことは、人間の心にともすれば宿りがちな猜疑の心を洗い流すように思われる。自然あるいは原始というものが、人の内部に直接何かをささやきかけてくるからだろうか?作詞・作曲不詳、W編曲による五右衛門節も飛び出した。空を見上げると星が二つ三つ瞬いていた。ようやく、今回の山行に明るい確信が湧いてくるのだった。
1977年6月19日(日)晴れ
今日はいよいよ山頂をきわめるのである。空身でテント地を出発。5mのナメ滝、4mの岩盤状の滝を過ぎるが、広々として歩きやすい流れである。小鳥がいくぶんくぐもったような声で鳴いている。
最後の岐れを右にとり、ぐんぐん高度をかせぎ、ヤブを漕ぐと、そこはもう頂上であった。4年越しの念願であった洞の天井△1333m。最近、測量が入ったらしく、直径2〜3mほど丸く切り開かれている。折りしも雲が切れ、青空がみるみる広がっていく。足下には大ヤマタ谷、川浦谷(かおれだに)からの支谷が押し寄せ、その向こう、平家岳の辺りにはまだ雲がわだかまっている。南には梢越しに日永岳がほど近くに、針葉樹らしい黒々としたその頂上を見せている。はるか東南には高賀山、瓢ヶ岳がもう夏らしい深い青緑の色を見せている。かつて西ヶ洞で滑落事故を起こしてクラブの方々に迷惑をおかけしてしまったこともあり、この山頂への道程は、自分にはひとしお長かったように思われたのである。
(追:2010.11.16 川北記)
西原氏の記録を編集しながら当時のことを思い出しました。
山名については調べてはいませんが、西ヶ洞の最奥にそびえる山のことだと思います。ならば、西ヶ洞を遡るのが当然です。
しかし、どうしても三角点を踏みたかった私は地図を眺めて「横入り」の姑息なルートを思いついたのであります。
でも、後悔はしていません。気のあった中間との2日間の楽しい山旅を過ごせたからです。今でもありありと当時のことを思い出し、若かった日々に戻れることが出来るからです。
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