冬の石徹白高原(毘沙門岳、野伏ヶ岳)

1974.12.31
 忙しい大晦日だと云うのに越美南線を走るカーキー色のディーゼルカーは、のんびりと田園を抜け、人家をかすめ、幾度と無く止まりながら長良川を遡って行く。誰も乗りはしない駅にも義理堅く止まり、信号が赤だと云っては忠実に止まり、列車とすれ違うと云ってはまたまた止まりなかなか動こうとしない。しかし、それは僕たちに雪国への遙かな旅を感じさせてくてれた。車窓に入ってくる山々の肌は徐々に白さを増していった。そして、突然広い谷間の一番奥に現れた大日岳の白い頂は、下車駅の白鳥が間近であることを教えてくれた。

 白鳥の駅前の食堂で西原氏絶賛のカツ丼とビール(氏は訳もなく、盲目的にこの組み合わせを他人に勧めるのである。)で昼食をすませた後、ジープとマイクロバスに分乗して桧峠へと向かった。前谷の村で国道158号線に別れを告げると車道は細く、しかも複雑に蛇行しながら前谷川を遡りゆるやかに高度を増しながら峠へと続いているのであった。

 桧峠は、広く、のびやかで高原状の旅情豊かな峠である。僕はとっては、2年前の早春に峠にある大阪府大の小屋をベースに毘沙門岳と大日岳に登った想い出深い処なのだ。当時のことと想いながら峠を越えると、不意に真っ白な山が視界に飛び込んできた。一瞬車内が騒然となる。野伏だ、小白山だ、いやいやあれは薙刀や、などと勝手な言葉が飛び交う。だが、この際何であろうとかまわない、白い山がそこにあるだけで充分なのだ。

 バスはそんな僕たちの気持ちをよそに、落ち着き払って「もうここは石徹白高原です。そんなに慌てることはありません。」と云わんとばかりにゆるりゆるりと峠を下りていくのであった。

 これから4日間世話になる山荘に着くと、先ず雨戸を開け放ち、荷物の整理だ。しかし、思いは早くも雪の世界にあった。適当に整理を手抜きして早々と外に出た。今日は、時間が無いのでスキー場での滑りだけだ。真剣に滑り、そして転んだ。中には真剣に転んで叉転んでいた人もあった。そうして、いつの間にか陽は西の空に傾いていた。

 山荘に戻ると大きな鍋が白い湯気を上げていた。それは、言葉では言い尽くせない幸せで平穏な光景であった。夕食の水炊きをつつき、ウィスキーにいい気分になり、最後に蕎麦を食べ、今日一日は終わろうとしていた。時は、気が遠くなりそうなまでに正確で流れ、そして正月が叉巡ってきたのである。

 1975.1.1
 この日は、根性鋼鉄組と根性ふにゃふにゃ組に分かれた。鋼鉄組は、朝早く起き出し野伏を目指して山荘を出て行った。出発の時のざわめきが遠くの世界からの音のように響いた。ふにゃふにゃ組の僕は、みの虫のようにシュラフに頭からすっぽりと潜り込みもう一度意識朦朧の人となった。

 再び意識は戻ると、白山神社へ初詣にに向かうことにした。朝食も採らないで外へ出ると、お陽様は高く恥ずかしい位に、にこやかに微笑んでいた。僕たちは、少しばかり後ろめたい気分になった。財布を忘れたので他人からめぐんでもらったわずかの小銭を賽銭箱に投げ入れ、欲張った願いを幾つも唱え、またまた後ろめたい気持ちにおちいる。社務所の横の自動販売機でおみくじを引く。恐る恐る展けると「吉」であった。内心ホットする。だが、周囲を見渡せば皆さん「吉だ吉だ」と騒いでいる。まあ結構な事ではあるが、もう少し何とかしてもらいたい気分にもなった。例えば「半吉」を入れておくとか・・・・。だが、せっかくの「吉」が取り消されれては大変なので、文句はこれくらいにしておこう。
 帰路は雪で一戦を、それも本気で交える。何でもありの戦いである。人海戦術があれば、奇襲作戦もある、時には裏切りもある。力尽き、雪果てた頃山荘に着き終戦となる。

 甘〜い甘〜い京風雑煮の小食をすませて、毘沙門岳を目指すことにした。スタイルは、本格的冬山派からハイキング派までバラバラである。しかし心は一つ僕たちは一致団結し頂を目指して山荘を出発したのである。色とりどりのスキーヤーを横目にしながらスキー場の端を列をなして進んだ。なぜか気分が良かった。だが、途中で馬鹿らしくなりリフトに乗った。やはり、ふにゃふにゃ組である。リフトを降り、スーキヤーの邪魔にならぬ場所で本格的に雪の上を歩く準備をした。ここでもスタイルはバラバラである。スキー組、かんじき組、かんじきを履きスキーを担ぐ者、他人が見ればとうてい同じ山を目指す一つなパティーとは思えないであろう。だが、かまうものか、誰も見てはいないのだ。藪を分け、雪を交互で踏みしめ、尾根を伝った。そして山頂に立った。ウィスキーを回し飲みし、頂きに立てた喜びを分かち合った。そして頂を辞し、桧峠へと向かったのであった。辿る稜線は尾根と云うより雪原と云ったほうが良いくらいに広くなだらかであった。その雪原に思い思いの幾状のもシュプールと無数かんじきの跡を残していった。峠に降り立った時には、暗闇は早くも山に迫っていた。僕たちは、満足気にその漆黒に染まり始めた山間に埋もれた山村に下って行った。民家にはすでにあかりがともされ、その中より団欒の声が漏れ始めてた。僕たちは山荘へ急いだ。

 山荘へ戻ると、十塚夫妻、坪内夫妻、それに未だ一人者の田渕氏が来ていた。今夜は大騒ぎになるに違いない。

 夕食のカレーは実に美味く、飲む酒は心地良く身体中をかけめっぐた。そうする中に、今回参加出来なかった大阪の河本女史より電話が入り、次々に呼び出しをくらう。訳の分からぬことをしゃべりまくった。最後は、受話器の前で歌を唄いまくった。知らぬ間に電話は切れたいた。それでも受話器に向かって大声で唄った。

1975.1.2
 今日は野伏ヶ岳へ行くことにした。昨日詣でた白山神社の横を過ぎ、石徹白川を渡り、中腹にある和田山牧場に続く林道を辿り徐々に高度を稼いでゆく。辿り着いた牧場は深い雪で被われていた。谷を隔てた向かいには大日から銚子に続く白い稜線があった。その奥にある三ノ峰はそれらよりも一段と大きく白かった。目指す野伏は眼前にるが、遠くに感じられた。高度1100m付近でかんじきに履き替え山頂に直接続く尾根に取り付いた。昨日、根性鋼鉄組が残してくれたトレースのおかげでラッセルがなく助かる。それでも斜面は急で、汗がしたたり落ちた。高度1500mの尾根の肩まで登り詰めると、山頂は指呼の距離に迫り、もう俺たちのものだと確信した。風は強く冷たかったが、汗のにじんだ身体には心地良かった。

 12時55分頂に達する。何もかも忘れ、仲間達と喜びを分かち合った。下りは一気であった。半ば尻セード、半ば転落状態で駆け下った。上在所の雑貨屋でビールと豆腐を買い、登ってきた雪の山に向かって笑顔で乾杯をし、今日一日に感謝をした。

 山荘に戻ると、夕食にはまだ少し早いが飲んだ。勿論酒だ、お茶などではない。スキーに出かけていた連中が戻ってきた頃には、既に酩酊状態におちいっていた。だが、これからが本番などだ。おでんを食べ、またまた酒を飲み最後の夜を楽しんだ。そして、知らぬ間に寝てしまっていた。しかし、もう一度起き出し最後の一滴まで飲み干した。外へ出ると雪が降り始めていた。石徹白高原は微かに青白い光を放っていた。例えようもない、恐ろしいまでの鎮かな光景であった。何もかもが深い雪の中へとけ込んでいく季節への序曲がガラスを張りつめた空間に響いていた。

1975.1.3
 三日間は、またたく間に過ぎ去った。心地良い疲労と、わずかな雪焼けと、それぞれの想い出を残して僕たちは山荘発った。
 マイクロバスはチェーンをガタガタと鳴らし桧峠へと向かう。山々は一段と白く、その稜線は蒼い空を限っていた。

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