粟柄越、それは湖北街道と耳川源流の粟柄、松屋さらに遠くは若狭の海とを結ぶ峠路のことである。森本次男風に云えば「若狭越」である。だが、同じ若狭越でも直接都である京都と若狭を結ぶ知井坂や五波谷峠とは全く趣を異にしている。
この路はまた、小説「湖の夢」の女主人公の「さく」が越えて行った峠でもある。作者の水上勉は「栗柄村から余呉へ出るには、一本道しかなかった。南の奥に赤坂山というかなり高い山がそびえていた・・・」と描いている。ただ小説の中では粟(あわ)が栗(くり)に書き換えられている。これが、故意か故意でないか、また栗柄村が今は廃村と化した粟柄村をさしているのかはしる由もない。
余談になるが、最近「山」と云う山好きの集まる店にクラブの連中と飲みにに行ったのであるが、その時「秘境・奥美濃の山旅の」著者である芝村文治氏が「北山クラブのかたですね」と話かけられてこられ、それから山のことや本のことと話が弾み楽しい一時を過ごした。その時、粟柄越のことも話題にあがったのであるが、氏の話によると、地元では「あわがら」ではなく「あわら」と呼んでいるとことであった。
僕は、過去二度この峠を通ったことがある。最初は、4年前の秋も深まった11月の初め原山峠から若江国境尾根辿った時のことである。三国山まで行くつもりであったが、ブッシュがひどく予定が狂い大谷山の山頂で幻想的な一夜を過ごした。次の日風の強い尾根を寒風山を経て峠に至り、マキノへと降りたのである。2回目は12月で、峠はもう雪の下にであった。赤坂山をへて三国山を往復した後、この時もまた若狭側へ未練を残しマキノへ下ったのである。そんな訳で、どうしても峠を越えて若狭へ抜けてみたかったのである。越える日は、秋のそれも風の強い日と決めていた。
9月23日
三条京阪発小浜行の国鉄バスは大津、堅田と琵琶湖西岸を快調に走っていく。車窓からの眺めは実に美しい。すっかり秋めいたた稲田の畦には真紅の曼珠沙華が乱れるように咲いている。風が吹けば穂を垂れた稲が一斉に揺れ動きまた揺れ動くのであった。
今津で地酒と30cmほどの琵琶マスを2匹買い込みタクシーでマキノスキー場へと向かった。秋のスキー場は閑散としてしてる。空には赤トンボが舞い、吹く風はもう肌寒い。
峠路の始まりは昔を想うにはあまりにも現代的であった。車こそ通れないが幅4−5mの道が尾根を切り崩してコンター520mくらいまで続いている。この幅広い道と別れ旧道に入ると間もなく路は山腹を巻くように谷を横切り始める。ここが、この峠路のにくいところである。そしして、峠路の2/3あたりで谷底を渡るようになっている。当然、そこは絶好の水場になる。重荷に喘いできた旅人にとってそこは貴重な休息の場になることは実際に峠路を辿った者には痛いほどよく分かる。このことは、若狭側でも巧妙に実現されている。心憎いまでに良く設計された峠路だ。
その水場をすぎると、路は谷を離れ始めジグザクを繰り返しながらへ尾根へ戻り高度を上げていく。同時に視界も徐々に広がって行
く。その視界が広がりきった所が峠であった。眼下には、琵琶湖が深く沈んで輝くばかりである。
不思議なことに、数限り無い旅人が通りすぎたのに、この峠には人のにおいと云うものがが感じられない。凄まじいまでの時の流れが、人々の足跡さえも流し去っていったのであろうか。烈風とまではいかないが、やはり強い風が若狭側から琵琶湖へ向かって吹き向けてゆく。その風にあたり一面を被った芒の穂が一斉に揺れると、一瞬ではあるが広山稜は銀の絹糸を撒いたようにキラリと光を放つのであった。
午後3時、4等と云う珍しい三角点が置かれている赤坂山を往復後峠に別れを告げ、山腹を巻くようにつけられた路を若狭へと向かった。路は近江側とは異なり近江坂を想わせるような深くえぐられた処がしばしば現れる。そんな中を奇々怪々のキノコ見つけては驚き栗や胡桃かあると云っては騒ぎ、子供の遠足のように楽しい路を降りていくのであった。初めからそんな山旅のつもりでであるから時間も何も無い。秋は、華やかさにおいて春にはかなわないが、花の多い季節である。僕たちの足取りはますます鈍るばかりだ。そんな訳で尾根を降りきって折戸谷にに出会った時はもうテント地を探さねばならない時刻であった。結局、テントは少し降って林道の終点に張ることにした。雨が降り始めたので、何時ものように豪勢な焚き火もせず夕食後早々とシュラフに潜り込んだ。
夜半今まで降っていた雨あしが強くなった。テントを烈しく打つ雨音は、薄れゆく意識の中でここち良く響いた。それは、すべての想いを流し去っていくようであった。
9月24日
僕たちは、朝食もとらないで松屋へと向かった。時折思い出したかのようにザーと音をたてて降る雨は、夏の通り雨にしては冷たすぎ、秋の日の時雨にしては烈し過ぎるそんな雨だった。林道は狭まった谷間を縫うように続いている。そして、その狭まった谷間が開け始めると松屋はもうそこだ。
空腹に耐えかねて村のはずれの神社の軒先を借りて、朝食を大々的に始めた時は8時をとうに過ぎていた。パンに紅茶、コーヒー、チーズ、キュウリ等々優雅なものである。だが、パンだけにはまいった。と云うのは、自称パンキチと称する人が大阪中のパン屋を、それも1日中駈けずり廻って買い集めたパンの山を見てその余りの多さに食べる前から胸がつかえてしまったからである。細長いパン、まん丸いパン、カチカチのパン、それはもう感心する外ない。
そんな日本離れした朝食が終わるころには、先ごろまで降っていた雨も上がり、真蒼な空が頭上に広がっていた。バスがあると云う新庄まできれいに舗装された車道を秋の陽射ししを浴びながら散策するのは真にのどかなものである。新庄には11時に着いたが、バスは1時55分までなくタクシーで国鉄の三方駅まで向かった。
耳川が山間から抜け広い稲田の中を走るようになると見え隠れし始める若狭の海は以外なほど明るく煌いていた。そして、その煌く海を見て若狭の国へ越えてきたのだと云う感慨が込み上げてくると同時に「ああ!ここまで歩いてくれば良かった」と云う後悔もした。
煌く海の向こうの空には純白よりまだ白い積乱雲が夏の形見のように湧き上がっていた。
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