荒島岳(無謀なる山旅)

10月7日
 そのうち止むだろうとたかをくくっていた雨は、大野駅に着いても止む気配など全く無い。それどころか本格的に降り始める様子であった。これは一大事とばかりに駅で新聞を買い求め、記事等そっちのけで天気図を見たのである。日本列島の南岸には秋雨前線がデーンとかまえその南方の海上には低気圧がひしめきあっている。そのうえ八百何十ミリバールと云う途轍もない台風が北上を開始始めているのであった。4人の迷予報官は意見を同じくし『天候は悪化の一方をたどる』と決然として断を下したのである。(実は、これは全くの迷判断であった。)

 よって計画はただちに変更されるはめにおちいったたのである。我々の目標は近くにあってしかも道がしっかりとしている山、すなわち『荒島岳』となった。だが地図が問題であった。街の本屋に荒島岳の載っている地図を買いに行ったが、そんなもは何処にも無いのである。しかしくじけている場合ではない。”地図なんぞいらねー!”と云うことにになった。こう云うのを世間では無謀登山と称するらしいがそんな事知るもんか。

 大野駅に戻る前に、本屋のおせっかいかいなおばさんに無理矢理勧められた朝市を見学する。街の路地には10軒ほどの農家のおばさんが店をひろげてている。柿、栗、ショーガ、コイモ、ミョーガ等量こそ少ないが種類は結構バラエティーに富んでいる。我々は、ここでボボと云う日本離れした香りのする果実と3個10円と云う感動的な価格の柿を4人いるかると言って4個10円に値切って購入し駅前のタクシー乗り場に向かった。

 なにしろ20万分の1の地図だけで山へ行こうと云うのだから全詳しい事は解らない。運チャンに「荒島岳登山口まで行ってくれ」と告げる他何も出来ないありさまである。そして10分後、我々は車から放り出された。それも、雨がシトシトと降る中へ。

 多分(実に多分なのだ)我々は20万図に記されている荒島岳登山道の何処かにいるはずなのだ。だが、我々は全く無知でもないのだ。それは、麓にスキー場があることを知っているからだ。そして、そのスキー場の小屋で雨をしのぎ今夜を過ごそうと云うのが魂胆なのだ。

 しかし、行けども行けどもそれらしき所は見当たらない。「もうスキー場は過ぎたんやろか」「いやもっと左にあるんとちがうんか」、と色々な意見が出るが定かな事は何もない。だだ我々の辿っている道は荒島岳に続いている事だけは確実であった。それは、「荒島岳5.6km」と記された道標をしかと見てきているからである。

 結局ここで荷物を置き、ともかくも山頂を目指ことにした。クラッカー、チーズ、リンゴ等をサブザックに詰め込んだまでは良かったが、水が無いのまいった。谷の底にいると云うのに、なんたる仕打ち。だが、北山クラブは、そんなことで諦めるへなちょこクラブとは違うんや!。「水なんかいらねー!」我々は猛然と出発した。みてくれ、このファイト!、この無謀さ!。

 道はしっかりとしているが、ススキが両側から被さるように茂り歩きづらい。もう随分と歩いたと思われる頃、道は谷を上がりきり尾根に乗っかるようになる。同時にススキも無くなり、雑木の中を辿る快適な道となる。

 木々は高度を上げるにつれてあおみ失っていく。紅葉が間近かい事をつげている。足下には、淡紫色のリンドウが雨に濡れ鮮やかに浮かびあがっていた。僕は、一輪手折って手帳に挿んだ。気障っぽく書けば「リンドウのあまりの秘めやかさに思わず手折ってそっと手帳に挿んだ私だった」と云う事になるロマンティック場面だが、現実はそんな生易しいものではないのだ。水のない我々は水に渇望し、木の葉に垂れている雨粒をペロペロとなめる始末である。葉よ幹の方が粒が大きいと解れば今度は幹をペロリ、またペロリである。

 やがて小荒島岳の分岐に至る。道は山腹を巻くように付けられていて直接山頂は通らない。今度はシャクナゲ平と呼ばれる滑らかななピークに至る。ここで、勝原からのの登山道に出会う。さらに先に進めば一度道は下り次いでもの凄い急斜面が現れる。ここが「もちがかべ」と呼ばれていることを知ったのは京都に帰ってからのことである。鎖が懸けてあり、苦しいけれども困難ではない。もちがかべを抜けると尾根は笹で覆われ始め、斜度も次第に緩くなる。そして、リンドウの色は濃くなるのであった。

 周囲は霧で閉ざされ、わずかな風さえも無い。この静寂無辺に近い空間に響くものは烈しい息づかいと、笹をかき分ける音だけである。

 そして、その静寂無辺の空間に突如として北電の建物とアンテナが蜃気楼ように浮かぶと山頂である。頂上はアンテナ等の建設のためか荒れ果ていて、これが海抜1523mのあの荒島岳とは思えなかった。それでも一等三角点の標石は頂の小高い丘にあり、我々は間違いなく荒島岳にたどり着いたのである。

 山頂にはもう一つ建物があった。「荒島大権現神社奥の院」である。名前だけ聞くとどんなに壮大なものかとおもわれるが、1m四方位の小さな社であり、中央に元治甲子年八日吉日と彫られた石仏が祭られ、その周囲に小さな仏様が数体置かれているだけのつつましいもであった。仏達前には、名刺に混ざって「照子勝差結ばれる日」と記された意味深な自然石も置かれてあった。

 霧が深くて何もみえないので、簡単な食事をとり山頂を後にすることにした。上がる時には寄る気にもなれなかった小荒島岳は本峰より遙かに素晴らしいものであった。

 荷物をデポした処に戻り、ザックを担ぎ再び下り始めた時、我々の天気予報が見事に外れていたことが明らかになってきた。雨はすっかり上がり、薄陽さえ射してくるのであった。適当な処でテントを張ろうと思いつつ登山道を下っていったが知らぬ間に中出の部落まで辿りついてしまった。と云うのは、テントを張るスペースはいくらでも在るのだが水が全く無いのである。すべてが伏流しているのである。結局その夜は村の公民館を借り、水は隣の家でわけてもらうことになった。物は頼みついでとその家で自転車を借り中林までビールを買いに雨上がりの清々しい大野盆地を突っ走った。

10月8日
 大野盆地の朝は、実にさわやかに明けた。昨夜世話になった隣の家に挨拶をしたあと、我々はすっかり刈り入れの終えた稲田の中を楽しみながらバス停へ向かった。刈り入れの終えた稲田を眺めていると何とも言い難い安堵感が込み上げてくるが、人々は早くも冬支度を始めているようである。雪国の秋は、脇目もふらず駆け足で野や山を抜けて行くのであろう。それ故、秋は色濃く切ないほど美しいのであろうか。そんな事を想いながら極彩色のコスモスが咲き乱れる中を中林への路を辿った。